反こしあんこ陣営には
こしあんこ帝国を敵対認定していた国の国民らも多くいた。こうしたやり取りの中、
大楚帝国の皇帝の
文永帝がこしあんこ帝国に襲撃された札幌の
わいるどすねげの援助などのやり取りを行うべく札幌訪問を決定した。当時の大楚帝国は鎖国政策を行った
明雄帝の政治とは真逆の政治を行う事が国家の方針となっており、これを成すべく文永帝は日本や朝鮮の諸国へ朝貢を要求したり当時の東洋諸国の様子を書き記したりなどしていた。また、こしあんこ帝国が暴れている北海道地方の東部には
釧路?という大楚帝国の朝貢国があったためこの札幌訪問は行われたとする説が最有力となっている。
29日末頃、文永帝を載せた船は釧路へ上陸し釧路の王と面会が行われた。この面会では文永帝により対こしあんこ帝国用の防具の配布と食料援助が行われた。その後文永帝は
新ひだか町?を通り町長の
しゃけ?と面会した。この面会ではこしあんこ帝国に対しての武器の調達と大楚帝国と新ひだか町の今後の外交などが話し合われた。そしてその後文永帝ら一行は新ひだか町を出ると札幌へと向かった。
すると突如として文永帝の馬車目掛けて発砲が行われた。これに気づいた護衛らは臨戦態勢に出たが暗殺部隊が国家ぐるみの大軍であったため数少ない文永帝の護衛らはすぐに銃殺されてしまった。その後少数の護衛と共に馬車から脱出した文永帝は新ひだか町へ引き返すべく逃走するがこしあんこゲリラ軍の奇襲を受け斬殺されてしまった。この暗殺事件により大楚帝国国内は混乱状態に陥り外交どころではなくなってしまった。その後、大楚帝国の外交官の荻野芳太郎はこしあんこ帝国に対し直接以下の要求を行った。
こしあんこ帝国へ告ぐ |
貴殿らにより我が国の偉大なる東洋大皇帝である文永陛下は殺害されてしまった。これは人として生まれ |
た以上許される行為ではない。そのため普通であれば報復すべく侵攻を行う所であるが寛大な現皇帝後孝 |
永陛下は以下の要求を条件に報復戦争の撤回を行うとのこと。 |
壱・賠償金百万円の支払い |
弐・事件関係者の引き渡し |
参・国家元首の退位 |
これを呑まねば我が国の最強兵器である核を貴国へ投下しすべての野蛮なる人民を焼き殺す |
この要求をこしあんこ帝国は拒否したがその後大楚帝国で
貞観の外寇が起こり
後孝永帝が殺害されたため報復戦争は実現しなかった。そのためこしあんこ帝国からは口だけ大国などと侮辱を受ける結果に終わってしまった。