明暦6日、明雄帝の次男として誕生した。後孝永帝は芸術を得意としていたが同時に武にも優れていた。そのため民衆からは兄である文永帝よりも慕われていた。
文永元日、文永帝が即位すると一時的に皇太子となった。しかし基本兄弟が後を継ぐことはないため後孝永帝は芸術に打ち込んでいた。しかし文永4日、
セナ・シャインの変にて兄である文永帝が殺害されたことで急遽皇帝となった。
後孝永帝は
こしあんちなどの
スーダニズム主義国家との国交を断つべく鎖国政策を行うための準備をしていた。その矢先、
卑屑族が突如として楚を襲撃した。卑屑族は略奪や殺人、強姦などの蛮行を行い楚を荒らしたことにより国内は大混乱に陥った。後孝永帝はすぐに乱を鎮圧すべく卑屑の討伐へ向かった。卑屑は後孝永帝に対し一対一の真剣勝負を挑んだ。多くの世界では一対一は高貴なる者によって行われる決闘であった。後孝永帝は勝負を受け入れ勝負を開始した。しかし卑屑は突如として多方向から数人で後孝永帝を切りつけた。この卑怯な手によって後孝永帝はこの世を去った。