背景
楚時代に
後孝永帝が殺害されるなどの被害を被った
貞観の外寇が勃発。その後も
卑屑族はたびたび世界中へ攻撃を仕掛けたが
天平の役,
天平の西伐により卑屑族はおおむねいなくなった。しかしまだ卑屑族の国である夜王朝は存在していたため後明雄帝は和睦交渉を行った。しかし夜王朝は拒否したため後明雄帝は怒り夜王朝への出兵を開始した。
ピリトゥン海戦
漢は樺太東部から艦隊を引き連れ侵攻を開始した。これに対し卑屑族は弓矢で応戦するが盾部隊を船ごとに置いた漢の作戦により全く意味をなさなかった。卑屑族は船を出し近距離戦を挑むが漢軍は魚雷を使い近づいてきた卑屑族を粉砕した。この海戦で卑屑族は漢軍に大敗したことで漢軍はたやすく上陸した。
ネフテエゴルスクの戦い
漢軍は都市であるネフテエゴルスクを落とすため南下を開始した。卑屑族は都市への侵攻を防ぐべく山岳部に大砲を仕掛け山道を通る漢軍を殲滅すべく待ち伏せを行った。そして漢軍が通ったところを一気に発射したがなんとそれは漢軍に騙されて桟道を歩いた民衆であった。動揺している卑屑族に対し後明雄帝は総攻撃令を出し卑屑族の大砲部隊を壊滅させた。卑屑族本体は一度引いて平野部で待ち伏せを行った。すると前から漢軍が現れたため卑屑族は漢軍目掛けて攻撃を行った。しかし全方向から漢の別動隊が現れた事で卑屑族は包囲されたことで降伏した。降伏した軍団は後明雄帝の命令で生き埋めにされ処刑された。こうしてネフテエゴルスクは陥落した。
ヴァルの戦い
漢軍はさらに南下し首都ヴァルへ攻撃を仕掛けた。これに対し卑屑族はネフテエゴルスクの戦いから学び包囲殲滅作戦を計画し大規模な包囲を行おうとした。しかしそれを読んだ後明雄帝は中央への一点集中攻撃を行った。これによりいとも簡単に国王のYellowHope3258は討取られほかの卑屑族は混乱し戦場から逃げ出した。しかし後明雄帝は武器を捨てた兵もろとも殺害するように命令した。さらにヴァル市内の民衆らも虐殺し女子供らは大量の奴隷として漢へ送還された。捕まった男らはオホーツク海に投げ捨てられた。その後、後明雄帝は夜王朝の物資の略奪と建物の完全破壊を行った。こうして建物はほとんど無くなり夜王朝の痕跡は完全に消え失せた。
その後
その後、卑屑族が完全に消え去ったことで世界中に平和が訪れた。また、5月中旬に
大日本帝国が夜王朝の痕跡と思われるチェストを発見した。