成立とアナトリア臨時国の建国
12月11日チャットがトルコ南部のキリキア地方にてキリキア侯国を設立、翌日には
オスマン帝国の前身となるアナトリア臨時国を建国した。建国後香取氏が国家元首に就任し、首都が
グアム?へ移転。この時点では建国以前から加盟を予定していたキリキア侯国、
グアム島?、
北マリアナ諸島、ヴィクトリアがアナトリア臨時国を構成していた。建国時これらの都市が所属する国名を決めるのは難航し、結果として建国者の意向でアナトリア臨時国となった。
(hoi4でトルコ共和国からオスマン帝国へ回帰する場合、内戦を挟む必要があるがその時帝政復古側の勢力名がアナトリア臨時国)
アナトリア諸勢力
アナトリア臨時国が建国された当時、アナトリア半島にはコンスタンティノープル、
キプロス、キリキア侯国の独立3勢力が存在。これに加え周辺では
日本国がペロポニソス半島、クレタ島、ロードス島を領有。東方イランではイラン永世中立国が設立されていた。20日にはビザンツ帝国が建国され急速な領土拡張を開始、同国は東ローマ帝国の版図再現を標榜しアナトリア半島地中海沿岸部を領有するコンスタンティノープルへ領土的関心を向けていた。このビザンツ帝国が領土拡張を行ったタイミングで各勢力も版図拡大を開始し、特にアナトリア半島西部はビザンツ帝国、日本国、コンスタンティノープルの3者が領有を争ったため国境線が入り乱れる状況となった。最終的には日本国がアナトリア半島及びペロポネソス半島から撤退したため、ある程度問題は解決された。しかし依然としてアナトリア半島地中海沿岸の一部をビザンツ帝国が占領し、クレタ島、ロードス島を日本国が領有したままであった。
トルコ統一とオスマン帝国成立
ビザンツ帝国成立前後からキリキア侯チャットがアナトリア半島諸勢力との交渉を開始し19日には
キプロスがアナトリア臨時国へ加盟。22日にはコンスタンティノープルが加盟(合意は20日)。トルコ3勢力全てがアナトリア臨時国へ加盟を果たし、アナトリア臨時国によってトルコ統一が達成された。この統一により23日アナトリア臨時国は国号を変え、
オスマン帝国が成立。アナトリア臨時国元首であった香取氏がオスマン皇帝へと即位した。オスマン帝国成立後しばらく首都が
グアム島?のままの状態が続いたが、後にメソポタミア地域へ遷都。
交易会館の発展
キリキア侯チャットが整備し、18日キリキア交易会館において開始した村人との交易は日ごとに取引数を増やし各種ダイヤツールやエンチャント本を取引できるようになった。交易会館は国内共有施設として解放され
オスマン帝国の発展に寄与。また
ウィーン包囲をはじめ有事の際には造兵廠としての役割を果たし、オスマン帝国での武器防具生産の大半がキリキアで行われた。キリキアで生産されたシャシュカやジャーハなどは国内のみならずレンドリースなどで一部同盟国にも流通している。当初交易会館と交易会館別館の二箇所で取引が行われていたものの村人数制限を受け別館は閉鎖、現在は交易会館でのみ取引が行われている。また後に
大クルディスタン?でエデッサ工房が開業し交易会館生産の各種武具の販売が開始した。
摂政の就任
1月8日トリポリタニア及びキレナイカ西部を領有するリビアが設立され、
オスマン帝国へ加盟したことによりアラビア半島と北アフリカを繋ぐエジプトの重要性が増加。以前からエジプトを領有する構想はあったものの全土領有にはエジプト沿岸部及びスエズ運河を占領するイギリスとの交渉が必要なため後回しとなっていた。しかし19日ギリシャがキレナイカ東部占領の動きを見せたため、以前からオスマン帝国のエジプト領有に積極的だったキリキア侯チャットがキレナイカ東部に
エジプト王国を設立。このためキリキア侯国初代摂政にsoraが就任。以降キリキア侯国のシステム的な管理は摂政が行うことになる。
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