明楽元日、
楚の第二の都市として成立する。
ほうろうが町公に任命され上海を中心とした地域に発展をした。しかしその後すぐに楚が
明楽事件をきっかけに崩壊したことでほうろうが皇帝となり
大秦帝国が建国された。これにより上海は秦の首都となった。その後
天平帝が皇帝となり
漢を建国すると上海を首都にする秦の体制をそのまま引き継いだ。こうして上海に多くの人々が集い汕頭辺りまで領土が拡大した。また、漢ができてからは大規模な整地などが行われ
南京が建てられ南京に楽天城などが建てられた。しかし
天平2日、
卑屑族が上海へ侵攻を開始し南京西部で激突した。しかしこの
天平の役で天平帝は勝利した。さらに
天平東寺?,
承徳西寺?など多くの建物が建ち町はにぎわっていった。
後明雄帝の治世では
万来天和4日から
シルクロードの建設が始まった。
5月21日に
嘉寧の変にて
後明雄帝が自害し御香系王朝が滅亡すると内戦が勃発し多くの建物が破壊されてしまう。ガスター朝成立後は
天津に首都が移されたため旧都となる。その後
赤口の大乱では
フン王朝?の襲撃を受けて大規模な建築破壊を受けたため都市は荒廃してしまう。その後漢が大日本帝国に併合された際に一時的に上海臨時政府となるがすぐに併合される。6月13日、上海の青年エンヴィーが上海にて独立デモを起こし
後漢帝国を建国し
第一次東洋大戦を引き起こす。この戦いの際上海では戦いが起こらなかったが大日本帝国軍が上海に陣取ったり上海西部の後漢の首都正当洛陽に大量の爆弾が投下されたため周辺部も荒れ果ててしまいかつての栄光は完全に失われてしまった。
その後上海は資金不足で何度も滅亡の危機を迎えるが現在は無事に残っている。また、昔皇居であった楽天城は現在は一般人の立ち入りの許可された観光スポットとなっている。
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