🇯🇵漢の二代目皇帝で御香朝最後の皇帝
後明雄大帝
ゲーマータグ:gokouyatu82
後明雄帝 | |
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時代:南京時代 | |
在位期間:承徳3日(4月18日)-嘉寧?元日(5月21日) | |
誕生:2022年3月19日 | |
誕生:2022年5月21日 | |
所属国:楚-大秦帝国-漢 | |
氏族:御香氏 | |
皇居:楽天城 | |
父:天平帝 | |
母:三山皇后 | |
子:御香やつ15世 |
亡国の暗君
とはちゃいぱん氏による私のページに対する荒らしである
はよあいつ帰ってこい
永始元日、楚の彭城に誕生する。その後楚が滅亡すると天平帝と共に大秦帝国で働き漢が建国されると皇太子となる。承徳3日、天平帝が死去すると皇位を継承し皇帝となる。後明雄帝は改革を行い農地の増加や商業の強化を行った。さらに天平帝が雪風町との同盟関係の継続を曖昧にしたのに対し後明雄帝は同盟の破棄を宣言し東洋連合との関係強化を行った。さらに承徳5日には多くの反帝政主義者、共産主義者を粛清しその中でも特に有名な学者を斬首し楽天城でさらし首とした。承徳6日、後明雄帝は楚時代から侵略をたびたびおこなってきた卑屑族を滅ぼすべく北樺太の夜王朝へ侵攻を開始し力攻めで滅亡させた。その際後明雄帝は国民を一人残らず虐殺しすべての建築物や文化財をことごとく破壊した。
また、東洋連合内部での漢の権威を上げるべく翻弄しオリーブ事件が勃発した際には一番初めに武断意見を出しオリーブ農業共和国を討伐すべく細かい策なども練り暗躍した。さらに万来3日には東洋連合に潜むオリーブ派の間者を処刑するなどの功績を上げる。
また、東洋連合内部での漢の権威を上げるべく翻弄しオリーブ事件が勃発した際には一番初めに武断意見を出しオリーブ農業共和国を討伐すべく細かい策なども練り暗躍した。さらに万来3日には東洋連合に潜むオリーブ派の間者を処刑するなどの功績を上げる。
万来5日、TWMCにモブが追加されるとアスガルドの前例を考えた後明雄帝は迅速に村人を確保し修繕と効率Vを持つ村人の種付けおぢさん?を獲得した。その後、ラグが原因でモブのスポーンが停止したことで多くの国家が村人を持つことができなくなり後明雄帝は修繕本の専売に成功した。この後明雄帝の活躍により漢は利益を得た。さらに大日本帝国と協力し村人を増加させて利益の肥大化を行った上、同盟国である八韓民国へ村人を一人送るなどの外交も行った。しかし万来8日、おねむ?によって村人一家が殺害される万来の変が起こった。これに怒った後明雄帝はおねむへ自首を要求。さらにアスガルドに対し二箇条の要求を行った。また、後明雄帝は怒りのあまりアスガルドの対応次第ではアスガルドの南部を爆撃することを企てたが大旭日帝國のむつきぃに止められたことでこの計画は白紙となった。その後、おねむの自首により事件は解決したがこの事件により大きな経済的損失をした。しかし大日本帝国の援助により村人を復活させ再び修繕の専売に成功した。その結果、約20万$も国家予算が増加した。これにより漢は楼蘭帝国から続く楼蘭民族?系国家の中で一番の最盛期を迎えることとなった。さらに同時期に東ケベック共和国に漢の大使館が完成した。これにより漢はさらに発展を遂げた。また、この時期に南京の城郭が完全に完成した。しかしこの時期、後明雄帝は多くの粛清も行った。ある共産主義者の学者はエンペラーボンバの50分の1サイズの核の実験台とされた。また、村人の共産主義者の学者の左藤は一家もろとも処刑され息子の肉を食べさせられた。
万来天和5日、突如として大蒙古帝國が漢を敵対国家認証を行ったことで後明雄帝は徹底抗戦を表明し騎兵の出動と大量の爆弾の運搬を行った。その後、後明雄帝は先陣を切り大蒙古帝國を漢青軍で包囲した。これにより蒙古から見る外の景色は青い旗で覆われた。さらに後明雄帝は蒙古軍を威嚇すべく世界初の爆撃攻撃を行った。この爆撃攻撃は小規模ながら蒙古軍は動揺した。その後、武器として使えるものは徹底的に惜しまず使い蒙古軍の妨害を行った。後明雄帝は『戦いは今ここに始まった。野蛮国家蒙古を聖なる漢青軍が征伐する。その手は野蛮人を殴るため、その声は野蛮人を差別するため、その剣は野蛮人の首を落とすためにある。漢は全力で神敵蒙古を滅ぼす。』とスピーチを行い大蒙古帝國の国民全てを神敵としインド帝国と共に爆撃を開始した。漢はブンエイボンバを大蒙古帝國南部へ投下し大穴を開けるほどの大被害をもたらした。さらにタチカワボンバ?が西部に投下されたのちロビンキャノン?が設置されたがロビンキャノンは使われることなく終戦を迎えた。この蒙泥戦争は漢どころか楼蘭民族全ての王朝においても異常と言えるほど徹底的に敵への攻撃を行った。これは軍事費用に多く金を使えるほど有り余っていた当時の漢の象徴ともいえる。
大和2日、大清帝国を併合すると後明雄帝は西へ進撃を開始し北部と西部の領土を拡大させる。さらに、このころに左大臣のお餅の活躍もあり漢は大きく経済成長を遂げる。このころになると漢に足りないものはないとまで言われる時代となり南京には国内外問わず多くの人々でにぎわった。その後、洛陽と安徽を成立させさらに西への勢力の拡大を成功させた。また、大和の変が起こった際はお餅の助言を信じ粛清を行った。さらにその後箱舞の乱が勃発するが八韓民国と協力しこれを鎮圧させるとさらに勢力を拡大させた。後明雄帝は戦いにおいて百戦錬磨であり次はタリム盆地を目指し勢力の拡大を行う旨の発表を行った。これに国民らは歓喜し嘉寧?期に入るとパレードなどが行われ歴代最高潮の賑わいを見せた。パレードの一環として後明雄帝はシルクロード東部の開通式を行ったがその式の最中に突如として一番の重臣であったお餅の謀反により追い詰められ自刃して果てた。(嘉寧の変)
後明雄帝の死後、いち早く南京入りを果たしたお餅の手によって御香一族は皆殺しとなった。こうして御香一族は滅亡し楼蘭系皇室はこの世から消えさった。しかしその後、二番目の重臣であったガスター?大公がお餅の皇帝即位を食い止めるべく挙兵し最終的にお餅を攻め滅ぼした。こうしてガスターが皇帝に就任しガスター朝が始まった。しかしそのガスター朝もドイツショックによるデフレでバブルが崩壊した挙句赤口の大乱でフン王朝?による侵攻を受けたことでどんどんと国力は衰退していき、ついに6月12日には大日本帝国により併合された。しかしその後その併合に対し抗議をしエンヴィーが後漢帝国を建国をしたことをきっかけに第一次東洋大戦が勃発し旧漢領の周辺は荒れ果ててしまった。
後明雄帝は嘉寧の変の際、護衛らが遺体を丁重に扱い南京まで運びきったことで古墳に埋葬され、今でも安らかに眠っている。
後明雄帝は嘉寧の変の際、護衛らが遺体を丁重に扱い南京まで運びきったことで古墳に埋葬され、今でも安らかに眠っている。
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