オスマン帝国
登録名:Ottoman_Empire
(国旗) | (国章) |
国の標語:永遠の国家 | |
国歌:オスマン帝国国歌 |
公用語 | 日本語 |
首都 | パレスチナ |
最大の都市 | サルデニア王国 |
構成都市 | ヒッタイト、ナポリ王国、サマルカンド、サルデニア王国、パレルモ、ヴィクトリア、コンスタンティノープル、クロスベル、台湾自治領、キレナイカ、アルザワ、パレスチナ、バグダッド、エルズルム |
国土面積 | 約8000チャンク(2022年6月6日現在) |
人口 | 46人(2022年6月6日現在) |
建国 | 2021年12月12日 |
通貨 | ドル($) |
国庫 | 非公開 |
政体 | 君主制 |
主義 | 権威的民主主義 |
皇帝 | 香取氏 |
大宰相 | チャット氏 |
南洋諸島連邦国の成立
12月11日香取氏によってグアム島が設立された。また、同日HaydenErsoy氏が北マリアナ諸島を設立。この時点で香取氏はHaydenErsoy氏と共に太平洋上の孤島にて隠居する予定であったため、国名を南洋諸島連邦国としていた。
但しこの時点ではまだ国家を建国していなかった為、後述のアナトリア臨時国への改名の件もあり、歴史上正式な国家名としての南洋諸島連邦国は存在していなかったか、存在しても僅か十数時間の寿命だったと推測される。
当時の要求領土は主にグアム島や北マリアナ諸島、小笠原諸島など、太平洋上の島嶼部であった。
アナトリア臨時国の建国
一方、同日トルコ南部にてチャット氏がキリキア侯国を設立。翌日にはアナトリア臨時国を建国した。建国後アナトリア臨時国の元首に香取氏が就任し、首都がキリキア地方からグアムへ移転。この時点では建国以前から加盟を予定していたキリキア侯国、グアム島、北マリアナ諸島、ヴィクトリアがアナトリア臨時国を構成していた。建国時これらの都市が所属する国名を決めるのは難航し、結果として建国者の意向でアナトリア臨時国となった。
(hoi4でトルコ共和国からオスマン帝国へ回帰する場合、内戦を挟む必要があるがその時帝政復古側の勢力名がアナトリア臨時国)
アナトリア諸勢力
アナトリア臨時国が建国された当時、アナトリア半島にはコンスタンティノープル、キプロス、キリキア侯国の独立3勢力が存在。これに加え周辺では日本国がペロポニソス半島、クレタ島、ロードス島を領有。東方イランではイラン永世中立国が設立されていた。20日にはビザンツ帝国が建国され急速な領土拡張を開始、同国は東ローマ帝国の版図再現を標榜しアナトリア半島地中海沿岸部を領有するコンスタンティノープルへ領土的関心を向けていた。このビザンツ帝国が領土拡張を行ったタイミングで各勢力も版図拡大を開始し、特にアナトリア半島西部はビザンツ帝国、日本国、コンスタンティノープルの3者が領有を争ったため国境線が入り乱れる状況となった。最終的には日本国がアナトリア半島及びペロポネソス半島から撤退したため、ある程度問題は解決された。しかし依然としてアナトリア半島地中海沿岸の一部をビザンツ帝国が占領したままであった。
トルコ統一とオスマン帝国成立
ビザンツ帝国成立前後からチャット氏がアナトリア半島諸勢力との交渉を開始し19日にはキプロスがアナトリア臨時国へ加盟。22日にはコンスタンティノープルが加盟(合意は20日)。トルコ3勢力全てがアナトリア臨時国へ加盟を果たし、アナトリア臨時国によってトルコ統一が達成された。この統一により23日アナトリア臨時国は国号を変え、オスマン帝国が成立。アナトリア臨時国元首であった香取氏がオスマン皇帝へと即位した。オスマン帝国成立後しばらく首都がグアム島のままの状態が続いたが、後にメソポタミア地域へ遷都。
三創同盟結成
2022年1月1日、欧州帝国連邦所属の英国に関連した外交問題に巻き込まれた国家が「欧州帝国連邦被害者の会」として集結していた。この集結の最中、日本国に属していた埼玉が独立を果たしたことで、Earth Creater以来となる埼玉帝国が誕生した。
これを機に別鯖のEarth Createrに同じルーツを持つ国家同士で同盟を組む流れとなり、遂に北方帝国、埼玉帝国、そしてオスマン帝国による三創同盟がここに成立した。正式発表は1月6日。
逢羅戦争とウィーン包囲
三創同盟結成と時を同じくした2022年1月1日、我が国は欧州帝国連邦の加盟国である神聖アウスグライヒがローマ帝国に宣戦布告する情報を当事国である神聖アウスグライヒと宋から入手した。更に宋からの情報ではオスマン帝国も狙われているとの情報も含まれていた。当時我がオスマン帝国は欧州にて勢力拡大を続ける欧州帝国連邦を警戒しており、神聖アウスグライヒによるローマ帝国侵攻は当に欧州帝国連邦の勢力拡大の一環だと我々は認識した。この武力によるローマ征服の先にオスマン帝国への宣戦布告が計画されていることを確信した我が国は、これ以上の勢力拡大を止めるべくローマ帝国による参戦要請もあり翌2日にローマ側での参戦を決意した。その後ローマ側は同盟国を募ることに成功し、最終的にオスマン帝国、ローマ帝国、インド帝国、満州人民共和国によるシルクロード同盟が結成される。この時点で神聖アウスグライヒ・欧州帝国連邦(義勇軍)・宋・FPC帝国(義勇軍)vsシルクロード同盟の構図であったが、我が国の工作により宋は不参戦となり戦力差はシルクロード同盟優勢となっていた。
1月2日21時、シルクロード同盟は神聖アウスグライヒ領ウィーンを奇襲し戦争の火蓋は落とされた。我が同盟軍はローマ側とウィーン側の二手に分かれ、ウィーンでは要塞にてアウスグライヒ軍の大部分を包囲し籠城戦に移行。しかし同盟国軍は要塞のドアが開けられず戦線が一時完全に膠着状態となったものの、満州軍が侵入に成功したことで城内は大混乱に陥りアウスグライヒ側の指揮系統は完全に崩壊。その後落城しシルクロード同盟の勝利が確定した。
1月3日に行われた講和会議は戦争ルールが不完全なものであったことも災いし、荒れに荒れたのは言うまでもない。最終的に我が国は神聖アウスグライヒを欧州帝国連邦から脱退させることに成功し、オスマンの新たな同盟国の一員となった。
後日我が国は、同盟国となったものの未だわだかまりが残っていた神聖アウスグライヒのトップであるむつきぃ氏と対談を行なった。そこでは欧州帝国連邦によるオスマン侵攻作戦に神聖アウスグライヒが別鯖のよしみで反対していたこと、我が国はその事実を知らずに欧州帝国連邦によるオスマン侵攻作戦を警戒して参戦したことが確認され、双方が情報伝達を密にしていればすれ違いによる戦争での対立を避けられたという事実が明るみになったことから、今後は情報共有を密にすることで合意、完全和解に至った。
オスマン帝国憲法
1月7日にHaydenErsoy氏が法務大臣に就任したことを受け、オスマン皇帝香取氏が帝国憲法の草案提出の勅命を発した。
翌1月8日、草案が速やかに提出され、議会の承認をもって、全30条からなるオスマン帝国憲法が施行された。
対一征會情報戦
詳細はこちらも参照
オーストリア戦争後、国際情勢は比較的安定していた。しかし、そんな中アデン湾を中心に活動していた第一帝国が急激に増強。サーバー内人口一位の国家となっていた。さらに第一帝国は既存の大国打破を目的とする陣営、一征社を旧欧州帝国連邦加盟国らと結成した。一征社に潜入していたスパイからの情報でオスマン帝国解体を計画していることも判明。オスマン帝国にとって地理的、政治的要因から第一帝国及び一征社との対決は不可避なものとなっていた。1月15日オスマン帝国所属の霧島氏がかつて第一帝国がyoutuberのディスコードを荒らしたとされる内部情報のスクリーンショットについて第一帝国へ公開質問を行った。それに対し、第一帝国のみちびき氏は第一帝国に所属している一部のメンバーがアイザック氏のサーバーを荒らしたこと自体は認めるものの、アイザック氏のサーバー運営の実態に対し怒りを感じた為にポルノハブのURLを送るなどの荒らし行為をしたもので運営と荒らしを行った第一帝国の一部メンバー両者とも悪かったものである。また第一帝国全体で行ったものではなく、みちびき氏自身のように荒らしに直接関与せず静観していた人や、荒らし以降に第一帝国へ参加した人もいるため第一帝国という括りでの批判は辞めて欲しいと発言。ポラン氏のサーバー荒らしの件については否定した。また、霧島氏の情報公開にそれに対し「外部の情報を持ち込み一方的に公然の場で批難する」行為であると非難。霧島氏は「こういう事をしている!!」ではなく「これは事実ですか?」と出しているだけであり、あくまで情報の真偽を尋ねていると返答した。これに対しみちびき氏は、これは問題報告にて報告させて頂きます。と返した。こうしたやり取りが続くなか、運営のShiaki氏が過去第一帝国の全員ではないとは言え、他所のサーバーを荒らしたことは第一帝国自身が認めており、それによって第一帝国の信用が損なわれている以上、第一帝国に対し荒らさないという宣言をするように求めた。ついにそれに対する第一帝国からの発表はなかった。その後12時にはみちびき氏が失踪。19時には第一帝国がサーバーからの撤退を宣言した。オスマン帝国はその跡地を接収し、リビアからアフガニスタン、アルメニアからイエメンまで至る帝国最大版図を築き上げた。
鎖国宣言
1月16日、オスマン帝国議会にて鎖国の是非を問う投票が行われ、賛成数が全議員の過半数を超えたことにより可決された。これによってオスマン帝国では鎖国が実施される運びとなった。
中東情勢が不安定な時期に一度鎖国の是非を問う投票が行われていたが、その時は否決されていた。
同日、THE WORLD MCディスコ―ドサーバー内の歴史チャンネルにてオスマン皇帝香取氏より、鎖国宣言が行われた。
鎖国宣言は以下の通り。
【オスマン帝国鎖国宣言】
オスマン帝国は一征會解体後の中東情勢の安定化に伴い、国内の速やかな整備や発展を進めるべく鎖国を宣言する。期間に関しては未定。一部国家を除き他国との接触を最小限にする他、どの陣営にも不参加となる。
エジプト問題
1月19日、ギリシャの北アフリカ進出によるオスマン帝国領の分断を阻止するためエジプトが設立された。しかしスエズ運河周辺地域に限っては既にキャメロットが領土を保有していたため、我がオスマンとしてはエジプト全土獲得を目指しキャメロットに領土の購入を打診した。交渉は成立し本来ならば翌日には譲渡が実行される予定であったが、翌20日になりキャメロット側が突如譲渡の延期を通告。間も無く既存交渉の白紙化、そしてスエズの週30万ドル(その後15万ドルに)での貸出という余りに法外な金額での提案を受け交渉は完全に暗礁に乗り上げた。到底納得のいかない我が国は、以前から運営の警告を受けているにも関わらず開発されていない領土を放置し、尚且つそれを高額レンタルで交渉材料に利用したキャメロットへの抗議で運営に通報。その後運営はスエズ運河周辺地域の線状領土を手放すようにキャメロットに指示したことで、オスマンは一部領土の奪還に成功した。しかしスエズ運河に関しては地政学的観点での重要性が運営に認められ返還されず、エジプト全土獲得は惜しくも叶わなかった。
開国宣言
2月4日、皇帝香取氏によりオスマン帝国開国が宣言された。
開国宣言は以下の通り。
【長き沈黙を破り】
オスマン帝国は国際情勢の変化に対応する為、本日23:30を以て正式に開国する。約半月ぶりである。
ギリシャ問題
オスマン帝国はギリシャ問題へ最終的な解決を図るため東西ローマ連合として、当時ギリシャを支配していたイタリアに対しスパイを使っての政治工作を開始。結果オスマン帝国主導によるオスマン、ギリシャ、イタリアの連邦化まで進展した。しかし連邦の国名を決める際にイタリア側が合意を拒否し破談。それによりオスマン帝国とイタリアは敵対関係に、ロシアを打ち負かした新勢力カザフスタンをも巻き込んだオスマン=イタリア冷戦へと発展。しかし冷戦が熱戦へと至る前に大規模メンテナンスが実施、新マップ移行が発表され第一紀は終わりを迎えた。
12月11日香取氏によってグアム島が設立された。また、同日HaydenErsoy氏が北マリアナ諸島を設立。この時点で香取氏はHaydenErsoy氏と共に太平洋上の孤島にて隠居する予定であったため、国名を南洋諸島連邦国としていた。
但しこの時点ではまだ国家を建国していなかった為、後述のアナトリア臨時国への改名の件もあり、歴史上正式な国家名としての南洋諸島連邦国は存在していなかったか、存在しても僅か十数時間の寿命だったと推測される。
当時の要求領土は主にグアム島や北マリアナ諸島、小笠原諸島など、太平洋上の島嶼部であった。
アナトリア臨時国の建国
一方、同日トルコ南部にてチャット氏がキリキア侯国を設立。翌日にはアナトリア臨時国を建国した。建国後アナトリア臨時国の元首に香取氏が就任し、首都がキリキア地方からグアムへ移転。この時点では建国以前から加盟を予定していたキリキア侯国、グアム島、北マリアナ諸島、ヴィクトリアがアナトリア臨時国を構成していた。建国時これらの都市が所属する国名を決めるのは難航し、結果として建国者の意向でアナトリア臨時国となった。
(hoi4でトルコ共和国からオスマン帝国へ回帰する場合、内戦を挟む必要があるがその時帝政復古側の勢力名がアナトリア臨時国)
アナトリア諸勢力
アナトリア臨時国が建国された当時、アナトリア半島にはコンスタンティノープル、キプロス、キリキア侯国の独立3勢力が存在。これに加え周辺では日本国がペロポニソス半島、クレタ島、ロードス島を領有。東方イランではイラン永世中立国が設立されていた。20日にはビザンツ帝国が建国され急速な領土拡張を開始、同国は東ローマ帝国の版図再現を標榜しアナトリア半島地中海沿岸部を領有するコンスタンティノープルへ領土的関心を向けていた。このビザンツ帝国が領土拡張を行ったタイミングで各勢力も版図拡大を開始し、特にアナトリア半島西部はビザンツ帝国、日本国、コンスタンティノープルの3者が領有を争ったため国境線が入り乱れる状況となった。最終的には日本国がアナトリア半島及びペロポネソス半島から撤退したため、ある程度問題は解決された。しかし依然としてアナトリア半島地中海沿岸の一部をビザンツ帝国が占領したままであった。
トルコ統一とオスマン帝国成立
ビザンツ帝国成立前後からチャット氏がアナトリア半島諸勢力との交渉を開始し19日にはキプロスがアナトリア臨時国へ加盟。22日にはコンスタンティノープルが加盟(合意は20日)。トルコ3勢力全てがアナトリア臨時国へ加盟を果たし、アナトリア臨時国によってトルコ統一が達成された。この統一により23日アナトリア臨時国は国号を変え、オスマン帝国が成立。アナトリア臨時国元首であった香取氏がオスマン皇帝へと即位した。オスマン帝国成立後しばらく首都がグアム島のままの状態が続いたが、後にメソポタミア地域へ遷都。
三創同盟結成
2022年1月1日、欧州帝国連邦所属の英国に関連した外交問題に巻き込まれた国家が「欧州帝国連邦被害者の会」として集結していた。この集結の最中、日本国に属していた埼玉が独立を果たしたことで、Earth Creater以来となる埼玉帝国が誕生した。
これを機に別鯖のEarth Createrに同じルーツを持つ国家同士で同盟を組む流れとなり、遂に北方帝国、埼玉帝国、そしてオスマン帝国による三創同盟がここに成立した。正式発表は1月6日。
逢羅戦争とウィーン包囲
三創同盟結成と時を同じくした2022年1月1日、我が国は欧州帝国連邦の加盟国である神聖アウスグライヒがローマ帝国に宣戦布告する情報を当事国である神聖アウスグライヒと宋から入手した。更に宋からの情報ではオスマン帝国も狙われているとの情報も含まれていた。当時我がオスマン帝国は欧州にて勢力拡大を続ける欧州帝国連邦を警戒しており、神聖アウスグライヒによるローマ帝国侵攻は当に欧州帝国連邦の勢力拡大の一環だと我々は認識した。この武力によるローマ征服の先にオスマン帝国への宣戦布告が計画されていることを確信した我が国は、これ以上の勢力拡大を止めるべくローマ帝国による参戦要請もあり翌2日にローマ側での参戦を決意した。その後ローマ側は同盟国を募ることに成功し、最終的にオスマン帝国、ローマ帝国、インド帝国、満州人民共和国によるシルクロード同盟が結成される。この時点で神聖アウスグライヒ・欧州帝国連邦(義勇軍)・宋・FPC帝国(義勇軍)vsシルクロード同盟の構図であったが、我が国の工作により宋は不参戦となり戦力差はシルクロード同盟優勢となっていた。
1月2日21時、シルクロード同盟は神聖アウスグライヒ領ウィーンを奇襲し戦争の火蓋は落とされた。我が同盟軍はローマ側とウィーン側の二手に分かれ、ウィーンでは要塞にてアウスグライヒ軍の大部分を包囲し籠城戦に移行。しかし同盟国軍は要塞のドアが開けられず戦線が一時完全に膠着状態となったものの、満州軍が侵入に成功したことで城内は大混乱に陥りアウスグライヒ側の指揮系統は完全に崩壊。その後落城しシルクロード同盟の勝利が確定した。
1月3日に行われた講和会議は戦争ルールが不完全なものであったことも災いし、荒れに荒れたのは言うまでもない。最終的に我が国は神聖アウスグライヒを欧州帝国連邦から脱退させることに成功し、オスマンの新たな同盟国の一員となった。
後日我が国は、同盟国となったものの未だわだかまりが残っていた神聖アウスグライヒのトップであるむつきぃ氏と対談を行なった。そこでは欧州帝国連邦によるオスマン侵攻作戦に神聖アウスグライヒが別鯖のよしみで反対していたこと、我が国はその事実を知らずに欧州帝国連邦によるオスマン侵攻作戦を警戒して参戦したことが確認され、双方が情報伝達を密にしていればすれ違いによる戦争での対立を避けられたという事実が明るみになったことから、今後は情報共有を密にすることで合意、完全和解に至った。
オスマン帝国憲法
1月7日にHaydenErsoy氏が法務大臣に就任したことを受け、オスマン皇帝香取氏が帝国憲法の草案提出の勅命を発した。
翌1月8日、草案が速やかに提出され、議会の承認をもって、全30条からなるオスマン帝国憲法が施行された。
対一征會情報戦
詳細はこちらも参照
オーストリア戦争後、国際情勢は比較的安定していた。しかし、そんな中アデン湾を中心に活動していた第一帝国が急激に増強。サーバー内人口一位の国家となっていた。さらに第一帝国は既存の大国打破を目的とする陣営、一征社を旧欧州帝国連邦加盟国らと結成した。一征社に潜入していたスパイからの情報でオスマン帝国解体を計画していることも判明。オスマン帝国にとって地理的、政治的要因から第一帝国及び一征社との対決は不可避なものとなっていた。1月15日オスマン帝国所属の霧島氏がかつて第一帝国がyoutuberのディスコードを荒らしたとされる内部情報のスクリーンショットについて第一帝国へ公開質問を行った。それに対し、第一帝国のみちびき氏は第一帝国に所属している一部のメンバーがアイザック氏のサーバーを荒らしたこと自体は認めるものの、アイザック氏のサーバー運営の実態に対し怒りを感じた為にポルノハブのURLを送るなどの荒らし行為をしたもので運営と荒らしを行った第一帝国の一部メンバー両者とも悪かったものである。また第一帝国全体で行ったものではなく、みちびき氏自身のように荒らしに直接関与せず静観していた人や、荒らし以降に第一帝国へ参加した人もいるため第一帝国という括りでの批判は辞めて欲しいと発言。ポラン氏のサーバー荒らしの件については否定した。また、霧島氏の情報公開にそれに対し「外部の情報を持ち込み一方的に公然の場で批難する」行為であると非難。霧島氏は「こういう事をしている!!」ではなく「これは事実ですか?」と出しているだけであり、あくまで情報の真偽を尋ねていると返答した。これに対しみちびき氏は、これは問題報告にて報告させて頂きます。と返した。こうしたやり取りが続くなか、運営のShiaki氏が過去第一帝国の全員ではないとは言え、他所のサーバーを荒らしたことは第一帝国自身が認めており、それによって第一帝国の信用が損なわれている以上、第一帝国に対し荒らさないという宣言をするように求めた。ついにそれに対する第一帝国からの発表はなかった。その後12時にはみちびき氏が失踪。19時には第一帝国がサーバーからの撤退を宣言した。オスマン帝国はその跡地を接収し、リビアからアフガニスタン、アルメニアからイエメンまで至る帝国最大版図を築き上げた。
鎖国宣言
1月16日、オスマン帝国議会にて鎖国の是非を問う投票が行われ、賛成数が全議員の過半数を超えたことにより可決された。これによってオスマン帝国では鎖国が実施される運びとなった。
中東情勢が不安定な時期に一度鎖国の是非を問う投票が行われていたが、その時は否決されていた。
同日、THE WORLD MCディスコ―ドサーバー内の歴史チャンネルにてオスマン皇帝香取氏より、鎖国宣言が行われた。
鎖国宣言は以下の通り。
【オスマン帝国鎖国宣言】
オスマン帝国は一征會解体後の中東情勢の安定化に伴い、国内の速やかな整備や発展を進めるべく鎖国を宣言する。期間に関しては未定。一部国家を除き他国との接触を最小限にする他、どの陣営にも不参加となる。
エジプト問題
1月19日、ギリシャの北アフリカ進出によるオスマン帝国領の分断を阻止するためエジプトが設立された。しかしスエズ運河周辺地域に限っては既にキャメロットが領土を保有していたため、我がオスマンとしてはエジプト全土獲得を目指しキャメロットに領土の購入を打診した。交渉は成立し本来ならば翌日には譲渡が実行される予定であったが、翌20日になりキャメロット側が突如譲渡の延期を通告。間も無く既存交渉の白紙化、そしてスエズの週30万ドル(その後15万ドルに)での貸出という余りに法外な金額での提案を受け交渉は完全に暗礁に乗り上げた。到底納得のいかない我が国は、以前から運営の警告を受けているにも関わらず開発されていない領土を放置し、尚且つそれを高額レンタルで交渉材料に利用したキャメロットへの抗議で運営に通報。その後運営はスエズ運河周辺地域の線状領土を手放すようにキャメロットに指示したことで、オスマンは一部領土の奪還に成功した。しかしスエズ運河に関しては地政学的観点での重要性が運営に認められ返還されず、エジプト全土獲得は惜しくも叶わなかった。
開国宣言
2月4日、皇帝香取氏によりオスマン帝国開国が宣言された。
開国宣言は以下の通り。
【長き沈黙を破り】
オスマン帝国は国際情勢の変化に対応する為、本日23:30を以て正式に開国する。約半月ぶりである。
ギリシャ問題
オスマン帝国はギリシャ問題へ最終的な解決を図るため東西ローマ連合として、当時ギリシャを支配していたイタリアに対しスパイを使っての政治工作を開始。結果オスマン帝国主導によるオスマン、ギリシャ、イタリアの連邦化まで進展した。しかし連邦の国名を決める際にイタリア側が合意を拒否し破談。それによりオスマン帝国とイタリアは敵対関係に、ロシアを打ち負かした新勢力カザフスタンをも巻き込んだオスマン=イタリア冷戦へと発展。しかし冷戦が熱戦へと至る前に大規模メンテナンスが実施、新マップ移行が発表され第一紀は終わりを迎えた。
摂政の就任
前日に新マップ移行の情報があった2月23日、国内や一部同盟国にオスマン皇帝であった香取氏が3月以降多忙につき長期離脱することが発表され、それにより大宰相であったチャット氏がオスマン帝国の代表として摂政に就任することが決定。25日には公式鯖でも同様の発表が行われてオスマン帝国の代表が交代した。
サーバーオープン
しばらくの間メンテナンスが続いていたサーバーが3月19日に解放され同日ヒッタイトが設立、翌日にはナポリ王国にて第二紀オスマン帝国が建国された。サーバーオープンしたことによりオスマン系住民が続々と町を設立しイタリアやアナトリア方面だけでなくウズベキスタンやタンザニア、モザンビークなどでも入植が行われた。
イタリア平定
3月20日にナポリ王国やサルデニア王国が設立され、それぞれナポリ王国はイタリア半島南部をサルデニア王国がサルディーニ、コルシカを領有していた。その後23日シチリア島を領有するパレルモとの加盟交渉が合意を迎えパレルモがオスマン帝国へ加盟。これによりイタリアに存在するする全ての勢力がオスマン帝国所属となり、29日にはサルデニア王国が中部、北イタリアを領有しイタリアはオスマン帝国により統一された。またイタリアを統一した30日時点で人口は24人を迎え、当時人口一位を誇ったアスガルドの28人に次ぐ2位となっていた。この時期国際情勢はイギリスやCFO連邦らの五大帝国陣営とそれに対抗し大日本帝国や漢、大清帝国、八韓民国らの加盟する東洋連合、この二つが主要陣営であった。オスマン帝国は大清帝国皇帝であった霧島氏からの提案でインド帝国連邦と共に4月5日東洋連合に加盟した。
トルコ領有と二度のビザンツ問題
オスマン帝国の中核を成すアナトリア半島には中部にヒッタイト、北西部にはコンスタンティノープルが設立されそれぞれ開発が進められた。しかしトルコ西部地中海地方の領有は各都市の拡張限界などもありなかなか進展しなかった。その様なオスマン帝国によるトルコ領有が不完全な中、4月3日カイカル氏がトルコ西部にビザンツ帝国を設立。さらに当時既にオスマン領であったコンスタンティノープルを請求した。双方の協議は困難を極め、交渉は破綻。オスマン帝国はトルコ中心部に領有問題を抱えることになってしまったが、カイカル氏が引退し4月8日にビザンツが削除されたことにより問題は解消。しかし、一度引退したカイカル氏であったが23日復帰し今度はオスマン帝国の領有が北部までしか及んでいなかったギリシャ、ペロポネソス半島南端にビザンツ帝国を再度設立。さらに既存のオスマン領を含むペロポネソス半島全域、クレタ島、トルコ西部を請求圏とした。当初ビザンツ帝国の支配領域は半島南端の8チャンクにとどまっており、ビザンツ帝国再度の建国を受けペロポネソス半島のほぼ全域やクレタ島、トルコ西部の領有が急速に進められビザンツ帝国がこれ以上領土を広げることはないと考えられさほど問題視されていなかった。しかし、ビザンツ帝国がギリシャ東部にかつて存在し放置されていたキプロス連邦の構成都市を組み込んだことによりビザンツ帝国の領土が幾倍にもなったため問題は深刻化。解決も困難を極め、最終解決は5月末のセルビア危機を待つこととなる。二度に渡るビザンツ問題でのカイカル氏との交渉は困難を極めたものの、一方でこの危機対応によりギリシャやトルコの領有が進み後述の4月計画の土台となった。
アジア・アフリカへの入植活動
帝国の中心地である東地中海地域以外でも入植活動が行われて中東イランやサマルカンド、アフリカでは南東アフリカ、ヴィクトリア、クロスベル、ステイリーキャットなどが設立され、東アジアでは台湾に領土を持つバナナ国の加盟などオスマン帝国は欧州から東アジアへ至るまで広く影響圏を広げていた。しかし台湾の編入を巡り漢と衝突。(台湾干渉)4月15日オスマン帝国へ加盟したバナナ国へ向け漢は線状に領土を伸ばし解除への条件として台湾の独立か漢への解除料の支払いを要求。オスマン帝国はこの事態に対し連盟の場で漢へ抗議し台湾へ向け延ばされた線状領土の放棄を訴え、最終的に漢は要求を取り下げ線状の領土を放棄し撤退したため事件は収束した。またバナナ国はオスマン帝国加盟後に台湾自治領と改称。
4月計画
イタリア・アナトリアを中核としたオスマン帝国であったが徐々にバルカン半島への進出も進め、ナポリ王国がアルバニア、北マケドニア、その後コンスタンティノープルと共にブルガリア、キプロス連邦崩壊後のギリシャ西部を領有しバルカン半島南部に支配権を確立。これを受けオスマン帝国は更に東地中海一帯をオスマン帝国勢力圏とし入植地の拡大を開始。北アフリカではパレルモがトリポリタニアを確保し、東部にはキレナイカを設立。リビア東部からシナイ半島までを領有した。4月19日に行われた東亜連合によるユーゴスラビア移譲ではイストリア、ダルマチアなどクロアチア沿岸の未回収のイタリアを獲得した。
セルビア王国の建国とオスマン帝国共同体の創設
東亜連合によるドイツ帝国へのバルカン移譲が行われてしばらく、大清帝国皇帝位を譲位した霧島氏が新たにユーゴスラビア地域でのセルビア建国を計画し、ドイツ帝国への大清帝国領南沙諸島の割譲で承認を得てセルビア及びモンテネグロを領土とするセルビア王国を4月29日建国。事前の協定に則りオスマン帝国及びドイツ帝国、セルビア王国でベオグラード条約が締結されセルビア王国がオスマン帝国及びドイツ帝国の衛星国であること、オスマン帝国がその優越権を持つことが確認された。またにこれに付随し3国で中央同盟が締結。オスマン帝国ではセルビア王国の建国を受けオスマン帝国を中心として自治国との精神的紐帯を目的する国際機関として5月4日オスマン帝国、セルビア王国を原加盟国とするオスマン帝国共同体を創設した。後の22日にはチャット氏の建国したジャバル・シャンマル首長国が加盟。
東洋連合=帝国協定冷戦
当初イギリスらの陣営五大帝国に対抗するために作られた東洋連合であったが、4月7日イギリスがサーバーから撤退。陣営として五大帝国は消滅すると、大国の内CFO連邦を除くオスマン帝国やドイツ帝国、東亜連合、インド帝国連邦などが加盟する東洋連合が国際社会唯一の大規模陣営となった。しかし、政治的自主性を求めていたドイツ帝国が5月3日東洋連合を脱退、7日には自国を盟主とする帝国協定を成立させた。その後ドイツ帝国と大日本帝国、CFO連邦と東亜連合などの対立を軸に東洋連合=帝国協定冷戦が激化。東洋連合主要加盟国は大日本帝国(7)、東亜連合(41)、インド帝国連邦(20)、オスマン帝国(42)対し帝国協定陣営はドイツ帝国(36)、CFO連邦(53)などであった。(国民数は5月第一週頃)オスマン帝国は東洋連合に所属していたため形式上は帝国協定国と対立していたものの、帝国協定盟主のドイツ帝国とは中央同盟を締結しており、またセルビア利権など二国間での繋がりも深く、第二位の国力に加えその様なバックボーンによりオスマン帝国は両陣営国に対し外交的フリーハンドを可能にしていた。また、当時のオスマン帝国の外交方針は両陣営の対決を可能な限り避けることにあり、オスマン帝国にとって二大陣営が冷戦を行う限り、オスマン帝国の国力や国際関係により自国権益が一方の陣営から侵犯される危険がなかった。しかし、仮にどちらかの陣営が相手方を打ち負かした場合、オスマン帝国は肥大化した一方陣営との共生が必須となり均衡した国際社会において保護してきた自勢力圏を脅かされる危険や、敗者となった陣営国との関係悪化が不可避なものとなり既存の国際関係が破綻する恐れがあった。また両陣営対決を避けると同時に。オスマン帝国独自の外国姿勢を維持するべく友好国との歩調を合わせつつ陣営としての加盟する東洋連合、同盟国が盟主の帝国協定どちらかにも偏重することの無いかつ警戒心も持たれないようにする繊細なバランス感覚による意思決定及び様々な秘密外交を求められた。この方針はエジプト問題の発生まで継続に成功し、最終的には後述のエジプト問題やドイツ崩壊に伴う帝国協定解散により主な対立軸が西洋連合=東洋連合冷戦に引き継がれる形で終局を迎えた。
セルビア騒乱
渡辺氏が5月8日にセルビア王国首相就任して以降セルビアはこれまでの条約遵守の方針を転換、秘密裏にドイツ帝国衛星国からの独立を画策。しかし、この独自の計画はオスマン・ドイツ双方に露見しドイツ帝国はこれに猛反発しセルビア王国に強い処断を求めた。オスマン帝国もドイツ帝国との関係や既存の条約遵守を重視しドイツ帝国と歩調を合わせ連名でセルビア王国に対し首相渡辺氏の解任を要求。これを受けセルビア王国は渡辺氏の首相職を解任した。この件を受けドイツ帝国からの提案で両国がセルビア王国に対し政治顧問を派遣したりなど、より直接的な監督の案などが議論されたが、東洋連合=帝国協定冷戦の只中であったためセルビアへのさらなる処置の実施は保留されていた。
エジプト問題
東洋連合=帝国協定冷戦末期、5月14日帝国協定加盟国であるCFO連邦がオスマン領エジプトに隣接する形でナイル川東岸一帯にFPCヨーロッパのアウトポストを設置。冷戦期でも自国勢力圏の安寧を確保してきたオスマン帝国はエジプト入植に強く抗議し、CFO連邦へスーダン以南への即時撤退を要求。また関係国へCFO連邦への外交的圧力を要請した。しかしCFO連邦が撤退の条件として300万を提示したためこれ以上の二国交渉は無意味とし、国際関係による解決へとシフト。しかし15日時点でも問題は解決せず、オスマン帝国はエジプト問題の終局点として第三国仲介による解決を図った。16日、CFO連邦はイエメンに入植地を設立し、エジプトのアウトポストを削除したことで問題は一時収束。しかしCFOのイエメン入植地が北上した場合、オスマン帝国にとって安全保障上の危機になりえると判断され、22日チャット氏がマシュリク地方南方にジャバル・シャンマル首長国を建国。しかし後述のドイツショック期頃にCFO連邦がイエメン入植地から撤退したため、ついにアラビア半島が係争地へと発展することは無かった。
摂政独裁から三頭政治、皇帝の帰還
一連の外交摩擦や当時摂政であったチャット氏によるジャバル・シャンマル建国構想に加え、第二紀始まって以来続いた摂政独裁体制を変革する必要性などにより3ヶ月間摂政を務めていたチャット氏が5月16日摂政を辞任。
翌17日HaydenErsoy氏が二代目摂政に就任、それまでの摂政独裁から摂政HaydenErsoy氏、大宰相チャット氏、参謀総長Admiral=Nyanko氏による三頭政治が成立。寡頭制による統治が行われていたものの24日頃には皇帝香取氏が復帰したため徐々に皇帝親政へと移行した。5月28日、皇帝香取氏が正式に復帰宣言。
ドイツ崩壊及び保護占領
ドイツ帝国所属の運営約一名が運営という特権を利用し不正に資金を増やす事件(ドイツ運営権限乱用事件・長崎事変)が5月28日に発生。事件の余波は多岐に渡り(ドイツショック)、最終的に国民の離反を抑えることに失敗したドイツ帝国は南ドイツ王国やポーランド王国などの分離独立を許した。国際的信用が失墜したドイツ帝国は短期間での国内立て直しを断念し、一時的な国家の身売りを宣言。29日、オスマン帝国はドイツの併合国に名乗りを挙げ交渉が成立。正式にドイツ全土併合を宣言した。
セルビア危機
5月27日、オスマン帝国及びドイツ帝国の共同衛星国であるセルビア王国が、ハンガリー・東ローマ帝国領ギリシャを宗主国に無断で併合していたことが判明。更に翌28日には、声明にて衛星国離脱・完全独立を一方的に宣言し帝政に移行した。我がオスマン帝国は領土返還への圧力を共同で掛ける為、オスマン・ドイツ・東ローマ、そして当事国のセルビアを加えた四国会議の開催を計画。会議の事前協議中にドイツが内部崩壊によって離脱するトラブル(ドイツショック)があったものの、三国会議への参加にセルビア側も応じたことで無事会議は開催された。しかしギリシャの即時返還や賠償金を求めたオスマン・東ローマ側の要求にセルビアは返答期限まで終始無言を貫き、交渉は完全に停滞。これに我が国は対抗措置として会議を離脱していたドイツ、そして領土を強奪された東ローマと共に連名で抗議声明を発表した。しかし行き詰まった交渉も僅か翌日の29日に転機を迎えた。オスマン帝国は内部崩壊したドイツの身売り先に名乗りを挙げ、併合交渉が成立。同日ドイツ全土併合を宣言した。これによりオスマンはセルビア北部のドイツ領バルカンを確保したことで、セルビアの半包囲網構築に成功した。我が国は最早オスマンを無視出来なくなったセルビア国王に首脳会談を持ちかけ、オスマンによるアルバニア北部の割譲を条件に遂に東ローマへのギリシャ返還を合意。その後我が国がセルビアの独立を正式承認したことでセルビア危機は収束した。
地中海帝国
セルビア危機が収束した5月29日、オスマン帝国は東ローマ改めビザンツ帝国との領土交換を実施。オスマンはセルビア帝国から返還された『東ローマ帝国領ギリシャ』全土を、ビザンツはギリシャ南部の『ペロポネソス半島』を其々獲得した。また翌30日には皇帝香取氏が中東にパレスチナを設立。これにより東地中海における最後の国家空白地帯が我がオスマン帝国によって埋められ、東地中海沿岸の支配を完全に確立した。6月2日には旧ドイツ領バルカンを併合しボスニアに改名。続く3日には突如ビザンツ帝国トップのKaikalu氏が引退を表明。ビザンツ帝国の消滅とオスマンへの領土移譲が決定的となり、オスマンの東地中海支配はより一層強固なものとなった。また新首都パレスチナ開発に伴い東方国境確定事業も行われてトルコ東部のエルズムルやイラン、バグダッドの領土調整が行われ6月29日メソポタミア地域を除き概ね東方国境が確定した。
環ユーラシア条約機構
我がオスマン帝国も一員となり世界最大の陣営として君臨してきた東洋連合も、6月に入り斜陽を迎えていた。崩壊した帝国協定に代わる東洋連合(以下東洋)への対抗組織として5月29日に設立された西洋連合(以下西洋)は、短期間で加盟国を増加させ勢力を大幅に拡大。一強状態となっていた東洋の世界秩序は短期間に終わり、冷戦状態に逆戻りした。しかし今回の冷戦はかつての帝国協定との冷戦とは様相が異なっていた。CFO連邦(キャニオン共和国やFPC王国などによる連邦国家、7月11日現在は解体)を中心に国民のin率も高く比較的活発な国家が多い西洋に比べ、陣営の盟主である大日本帝国や東南アジア独立諸国連合(以下東亜)などの主要国は過疎化が著しく、東亜に至っては町の維持すらも困難で消滅をただ眺める他ない末期的な状態であった。加えて東洋の実質的な盟主とも言える日帝は、些か強引とも取れる理論武装によって他国との外交摩擦が頻発しており、東洋は弱体化と印象悪化の二重苦に直面していた。この様な東洋の衰退を受けて我がオスマンは6月10日、東洋脱退の可否を問う国民投票を実施。結果はオスマン建国史上初の同票に終わり、オスマン憲法に則り皇帝判断で残留となった。この判断には、離脱後のオスマンの外交方針が定まっておらず、仮に独自陣営を設立したとしても有力国は既に他陣営に属しており、国際社会において孤立する可能性があるという背景があったからである。しかし僅か約一週間後の6月18日、オスマンの外交方針を決定付ける外交問題が発生した。チェコ領イングランドの譲渡を巡る交渉においてチェコ共和国の二枚舌外交が発覚したのだ。チェコとの交渉二カ国のうち、イングランドを獲得できなかった英領アイルランド及び宗主国大英帝国によるチェコ・領土獲得国日帝への抗議は次第に陣営的側面を帯び始め、英国が加盟する西洋連合とチェコ・日帝が加盟する東洋連合の決定的な対立へと発展した。西洋諸国による批難声明が相次ぐ中、東洋は瓦解への道を歩み始めていた。同日中に我がオスマンの友好国かつ東洋主要国の一つである印度帝国連邦(以下インド)が、東洋脱退を示唆。インドが離脱すれば東洋の一層の弱体化は避けられず、我が国は6月24日に急遽二回目の東洋離脱を問う国民投票を決行。離脱票の圧倒的多数により、同日中に東洋連合を正式脱退した。我が国の東洋脱退の余波はかなり大きく、翌25日から大旭日帝國、ケベック連邦、印度帝国連邦などの脱退ラッシュを引き起こしたことで、東洋連合瓦解は決定的となった。我がオスマンはその後東洋連合に代わる独自陣営設立を模索。同じ東洋離脱組のインドと旭日、そしてかつての三創同盟時代から親交の深い埼玉帝国を招待し、6月26日には遂にオスマン悲願の独自陣営、環ユーラシア条約機構を設立。7月1日には公式声明にて正式発足を果たした。
前日に新マップ移行の情報があった2月23日、国内や一部同盟国にオスマン皇帝であった香取氏が3月以降多忙につき長期離脱することが発表され、それにより大宰相であったチャット氏がオスマン帝国の代表として摂政に就任することが決定。25日には公式鯖でも同様の発表が行われてオスマン帝国の代表が交代した。
サーバーオープン
しばらくの間メンテナンスが続いていたサーバーが3月19日に解放され同日ヒッタイトが設立、翌日にはナポリ王国にて第二紀オスマン帝国が建国された。サーバーオープンしたことによりオスマン系住民が続々と町を設立しイタリアやアナトリア方面だけでなくウズベキスタンやタンザニア、モザンビークなどでも入植が行われた。
イタリア平定
3月20日にナポリ王国やサルデニア王国が設立され、それぞれナポリ王国はイタリア半島南部をサルデニア王国がサルディーニ、コルシカを領有していた。その後23日シチリア島を領有するパレルモとの加盟交渉が合意を迎えパレルモがオスマン帝国へ加盟。これによりイタリアに存在するする全ての勢力がオスマン帝国所属となり、29日にはサルデニア王国が中部、北イタリアを領有しイタリアはオスマン帝国により統一された。またイタリアを統一した30日時点で人口は24人を迎え、当時人口一位を誇ったアスガルドの28人に次ぐ2位となっていた。この時期国際情勢はイギリスやCFO連邦らの五大帝国陣営とそれに対抗し大日本帝国や漢、大清帝国、八韓民国らの加盟する東洋連合、この二つが主要陣営であった。オスマン帝国は大清帝国皇帝であった霧島氏からの提案でインド帝国連邦と共に4月5日東洋連合に加盟した。
トルコ領有と二度のビザンツ問題
オスマン帝国の中核を成すアナトリア半島には中部にヒッタイト、北西部にはコンスタンティノープルが設立されそれぞれ開発が進められた。しかしトルコ西部地中海地方の領有は各都市の拡張限界などもありなかなか進展しなかった。その様なオスマン帝国によるトルコ領有が不完全な中、4月3日カイカル氏がトルコ西部にビザンツ帝国を設立。さらに当時既にオスマン領であったコンスタンティノープルを請求した。双方の協議は困難を極め、交渉は破綻。オスマン帝国はトルコ中心部に領有問題を抱えることになってしまったが、カイカル氏が引退し4月8日にビザンツが削除されたことにより問題は解消。しかし、一度引退したカイカル氏であったが23日復帰し今度はオスマン帝国の領有が北部までしか及んでいなかったギリシャ、ペロポネソス半島南端にビザンツ帝国を再度設立。さらに既存のオスマン領を含むペロポネソス半島全域、クレタ島、トルコ西部を請求圏とした。当初ビザンツ帝国の支配領域は半島南端の8チャンクにとどまっており、ビザンツ帝国再度の建国を受けペロポネソス半島のほぼ全域やクレタ島、トルコ西部の領有が急速に進められビザンツ帝国がこれ以上領土を広げることはないと考えられさほど問題視されていなかった。しかし、ビザンツ帝国がギリシャ東部にかつて存在し放置されていたキプロス連邦の構成都市を組み込んだことによりビザンツ帝国の領土が幾倍にもなったため問題は深刻化。解決も困難を極め、最終解決は5月末のセルビア危機を待つこととなる。二度に渡るビザンツ問題でのカイカル氏との交渉は困難を極めたものの、一方でこの危機対応によりギリシャやトルコの領有が進み後述の4月計画の土台となった。
アジア・アフリカへの入植活動
帝国の中心地である東地中海地域以外でも入植活動が行われて中東イランやサマルカンド、アフリカでは南東アフリカ、ヴィクトリア、クロスベル、ステイリーキャットなどが設立され、東アジアでは台湾に領土を持つバナナ国の加盟などオスマン帝国は欧州から東アジアへ至るまで広く影響圏を広げていた。しかし台湾の編入を巡り漢と衝突。(台湾干渉)4月15日オスマン帝国へ加盟したバナナ国へ向け漢は線状に領土を伸ばし解除への条件として台湾の独立か漢への解除料の支払いを要求。オスマン帝国はこの事態に対し連盟の場で漢へ抗議し台湾へ向け延ばされた線状領土の放棄を訴え、最終的に漢は要求を取り下げ線状の領土を放棄し撤退したため事件は収束した。またバナナ国はオスマン帝国加盟後に台湾自治領と改称。
4月計画
イタリア・アナトリアを中核としたオスマン帝国であったが徐々にバルカン半島への進出も進め、ナポリ王国がアルバニア、北マケドニア、その後コンスタンティノープルと共にブルガリア、キプロス連邦崩壊後のギリシャ西部を領有しバルカン半島南部に支配権を確立。これを受けオスマン帝国は更に東地中海一帯をオスマン帝国勢力圏とし入植地の拡大を開始。北アフリカではパレルモがトリポリタニアを確保し、東部にはキレナイカを設立。リビア東部からシナイ半島までを領有した。4月19日に行われた東亜連合によるユーゴスラビア移譲ではイストリア、ダルマチアなどクロアチア沿岸の未回収のイタリアを獲得した。
セルビア王国の建国とオスマン帝国共同体の創設
東亜連合によるドイツ帝国へのバルカン移譲が行われてしばらく、大清帝国皇帝位を譲位した霧島氏が新たにユーゴスラビア地域でのセルビア建国を計画し、ドイツ帝国への大清帝国領南沙諸島の割譲で承認を得てセルビア及びモンテネグロを領土とするセルビア王国を4月29日建国。事前の協定に則りオスマン帝国及びドイツ帝国、セルビア王国でベオグラード条約が締結されセルビア王国がオスマン帝国及びドイツ帝国の衛星国であること、オスマン帝国がその優越権を持つことが確認された。またにこれに付随し3国で中央同盟が締結。オスマン帝国ではセルビア王国の建国を受けオスマン帝国を中心として自治国との精神的紐帯を目的する国際機関として5月4日オスマン帝国、セルビア王国を原加盟国とするオスマン帝国共同体を創設した。後の22日にはチャット氏の建国したジャバル・シャンマル首長国が加盟。
東洋連合=帝国協定冷戦
当初イギリスらの陣営五大帝国に対抗するために作られた東洋連合であったが、4月7日イギリスがサーバーから撤退。陣営として五大帝国は消滅すると、大国の内CFO連邦を除くオスマン帝国やドイツ帝国、東亜連合、インド帝国連邦などが加盟する東洋連合が国際社会唯一の大規模陣営となった。しかし、政治的自主性を求めていたドイツ帝国が5月3日東洋連合を脱退、7日には自国を盟主とする帝国協定を成立させた。その後ドイツ帝国と大日本帝国、CFO連邦と東亜連合などの対立を軸に東洋連合=帝国協定冷戦が激化。東洋連合主要加盟国は大日本帝国(7)、東亜連合(41)、インド帝国連邦(20)、オスマン帝国(42)対し帝国協定陣営はドイツ帝国(36)、CFO連邦(53)などであった。(国民数は5月第一週頃)オスマン帝国は東洋連合に所属していたため形式上は帝国協定国と対立していたものの、帝国協定盟主のドイツ帝国とは中央同盟を締結しており、またセルビア利権など二国間での繋がりも深く、第二位の国力に加えその様なバックボーンによりオスマン帝国は両陣営国に対し外交的フリーハンドを可能にしていた。また、当時のオスマン帝国の外交方針は両陣営の対決を可能な限り避けることにあり、オスマン帝国にとって二大陣営が冷戦を行う限り、オスマン帝国の国力や国際関係により自国権益が一方の陣営から侵犯される危険がなかった。しかし、仮にどちらかの陣営が相手方を打ち負かした場合、オスマン帝国は肥大化した一方陣営との共生が必須となり均衡した国際社会において保護してきた自勢力圏を脅かされる危険や、敗者となった陣営国との関係悪化が不可避なものとなり既存の国際関係が破綻する恐れがあった。また両陣営対決を避けると同時に。オスマン帝国独自の外国姿勢を維持するべく友好国との歩調を合わせつつ陣営としての加盟する東洋連合、同盟国が盟主の帝国協定どちらかにも偏重することの無いかつ警戒心も持たれないようにする繊細なバランス感覚による意思決定及び様々な秘密外交を求められた。この方針はエジプト問題の発生まで継続に成功し、最終的には後述のエジプト問題やドイツ崩壊に伴う帝国協定解散により主な対立軸が西洋連合=東洋連合冷戦に引き継がれる形で終局を迎えた。
セルビア騒乱
渡辺氏が5月8日にセルビア王国首相就任して以降セルビアはこれまでの条約遵守の方針を転換、秘密裏にドイツ帝国衛星国からの独立を画策。しかし、この独自の計画はオスマン・ドイツ双方に露見しドイツ帝国はこれに猛反発しセルビア王国に強い処断を求めた。オスマン帝国もドイツ帝国との関係や既存の条約遵守を重視しドイツ帝国と歩調を合わせ連名でセルビア王国に対し首相渡辺氏の解任を要求。これを受けセルビア王国は渡辺氏の首相職を解任した。この件を受けドイツ帝国からの提案で両国がセルビア王国に対し政治顧問を派遣したりなど、より直接的な監督の案などが議論されたが、東洋連合=帝国協定冷戦の只中であったためセルビアへのさらなる処置の実施は保留されていた。
エジプト問題
東洋連合=帝国協定冷戦末期、5月14日帝国協定加盟国であるCFO連邦がオスマン領エジプトに隣接する形でナイル川東岸一帯にFPCヨーロッパのアウトポストを設置。冷戦期でも自国勢力圏の安寧を確保してきたオスマン帝国はエジプト入植に強く抗議し、CFO連邦へスーダン以南への即時撤退を要求。また関係国へCFO連邦への外交的圧力を要請した。しかしCFO連邦が撤退の条件として300万を提示したためこれ以上の二国交渉は無意味とし、国際関係による解決へとシフト。しかし15日時点でも問題は解決せず、オスマン帝国はエジプト問題の終局点として第三国仲介による解決を図った。16日、CFO連邦はイエメンに入植地を設立し、エジプトのアウトポストを削除したことで問題は一時収束。しかしCFOのイエメン入植地が北上した場合、オスマン帝国にとって安全保障上の危機になりえると判断され、22日チャット氏がマシュリク地方南方にジャバル・シャンマル首長国を建国。しかし後述のドイツショック期頃にCFO連邦がイエメン入植地から撤退したため、ついにアラビア半島が係争地へと発展することは無かった。
摂政独裁から三頭政治、皇帝の帰還
一連の外交摩擦や当時摂政であったチャット氏によるジャバル・シャンマル建国構想に加え、第二紀始まって以来続いた摂政独裁体制を変革する必要性などにより3ヶ月間摂政を務めていたチャット氏が5月16日摂政を辞任。
翌17日HaydenErsoy氏が二代目摂政に就任、それまでの摂政独裁から摂政HaydenErsoy氏、大宰相チャット氏、参謀総長Admiral=Nyanko氏による三頭政治が成立。寡頭制による統治が行われていたものの24日頃には皇帝香取氏が復帰したため徐々に皇帝親政へと移行した。5月28日、皇帝香取氏が正式に復帰宣言。
ドイツ崩壊及び保護占領
ドイツ帝国所属の運営約一名が運営という特権を利用し不正に資金を増やす事件(ドイツ運営権限乱用事件・長崎事変)が5月28日に発生。事件の余波は多岐に渡り(ドイツショック)、最終的に国民の離反を抑えることに失敗したドイツ帝国は南ドイツ王国やポーランド王国などの分離独立を許した。国際的信用が失墜したドイツ帝国は短期間での国内立て直しを断念し、一時的な国家の身売りを宣言。29日、オスマン帝国はドイツの併合国に名乗りを挙げ交渉が成立。正式にドイツ全土併合を宣言した。
セルビア危機
5月27日、オスマン帝国及びドイツ帝国の共同衛星国であるセルビア王国が、ハンガリー・東ローマ帝国領ギリシャを宗主国に無断で併合していたことが判明。更に翌28日には、声明にて衛星国離脱・完全独立を一方的に宣言し帝政に移行した。我がオスマン帝国は領土返還への圧力を共同で掛ける為、オスマン・ドイツ・東ローマ、そして当事国のセルビアを加えた四国会議の開催を計画。会議の事前協議中にドイツが内部崩壊によって離脱するトラブル(ドイツショック)があったものの、三国会議への参加にセルビア側も応じたことで無事会議は開催された。しかしギリシャの即時返還や賠償金を求めたオスマン・東ローマ側の要求にセルビアは返答期限まで終始無言を貫き、交渉は完全に停滞。これに我が国は対抗措置として会議を離脱していたドイツ、そして領土を強奪された東ローマと共に連名で抗議声明を発表した。しかし行き詰まった交渉も僅か翌日の29日に転機を迎えた。オスマン帝国は内部崩壊したドイツの身売り先に名乗りを挙げ、併合交渉が成立。同日ドイツ全土併合を宣言した。これによりオスマンはセルビア北部のドイツ領バルカンを確保したことで、セルビアの半包囲網構築に成功した。我が国は最早オスマンを無視出来なくなったセルビア国王に首脳会談を持ちかけ、オスマンによるアルバニア北部の割譲を条件に遂に東ローマへのギリシャ返還を合意。その後我が国がセルビアの独立を正式承認したことでセルビア危機は収束した。
地中海帝国
セルビア危機が収束した5月29日、オスマン帝国は東ローマ改めビザンツ帝国との領土交換を実施。オスマンはセルビア帝国から返還された『東ローマ帝国領ギリシャ』全土を、ビザンツはギリシャ南部の『ペロポネソス半島』を其々獲得した。また翌30日には皇帝香取氏が中東にパレスチナを設立。これにより東地中海における最後の国家空白地帯が我がオスマン帝国によって埋められ、東地中海沿岸の支配を完全に確立した。6月2日には旧ドイツ領バルカンを併合しボスニアに改名。続く3日には突如ビザンツ帝国トップのKaikalu氏が引退を表明。ビザンツ帝国の消滅とオスマンへの領土移譲が決定的となり、オスマンの東地中海支配はより一層強固なものとなった。また新首都パレスチナ開発に伴い東方国境確定事業も行われてトルコ東部のエルズムルやイラン、バグダッドの領土調整が行われ6月29日メソポタミア地域を除き概ね東方国境が確定した。
環ユーラシア条約機構
我がオスマン帝国も一員となり世界最大の陣営として君臨してきた東洋連合も、6月に入り斜陽を迎えていた。崩壊した帝国協定に代わる東洋連合(以下東洋)への対抗組織として5月29日に設立された西洋連合(以下西洋)は、短期間で加盟国を増加させ勢力を大幅に拡大。一強状態となっていた東洋の世界秩序は短期間に終わり、冷戦状態に逆戻りした。しかし今回の冷戦はかつての帝国協定との冷戦とは様相が異なっていた。CFO連邦(キャニオン共和国やFPC王国などによる連邦国家、7月11日現在は解体)を中心に国民のin率も高く比較的活発な国家が多い西洋に比べ、陣営の盟主である大日本帝国や東南アジア独立諸国連合(以下東亜)などの主要国は過疎化が著しく、東亜に至っては町の維持すらも困難で消滅をただ眺める他ない末期的な状態であった。加えて東洋の実質的な盟主とも言える日帝は、些か強引とも取れる理論武装によって他国との外交摩擦が頻発しており、東洋は弱体化と印象悪化の二重苦に直面していた。この様な東洋の衰退を受けて我がオスマンは6月10日、東洋脱退の可否を問う国民投票を実施。結果はオスマン建国史上初の同票に終わり、オスマン憲法に則り皇帝判断で残留となった。この判断には、離脱後のオスマンの外交方針が定まっておらず、仮に独自陣営を設立したとしても有力国は既に他陣営に属しており、国際社会において孤立する可能性があるという背景があったからである。しかし僅か約一週間後の6月18日、オスマンの外交方針を決定付ける外交問題が発生した。チェコ領イングランドの譲渡を巡る交渉においてチェコ共和国の二枚舌外交が発覚したのだ。チェコとの交渉二カ国のうち、イングランドを獲得できなかった英領アイルランド及び宗主国大英帝国によるチェコ・領土獲得国日帝への抗議は次第に陣営的側面を帯び始め、英国が加盟する西洋連合とチェコ・日帝が加盟する東洋連合の決定的な対立へと発展した。西洋諸国による批難声明が相次ぐ中、東洋は瓦解への道を歩み始めていた。同日中に我がオスマンの友好国かつ東洋主要国の一つである印度帝国連邦(以下インド)が、東洋脱退を示唆。インドが離脱すれば東洋の一層の弱体化は避けられず、我が国は6月24日に急遽二回目の東洋離脱を問う国民投票を決行。離脱票の圧倒的多数により、同日中に東洋連合を正式脱退した。我が国の東洋脱退の余波はかなり大きく、翌25日から大旭日帝國、ケベック連邦、印度帝国連邦などの脱退ラッシュを引き起こしたことで、東洋連合瓦解は決定的となった。我がオスマンはその後東洋連合に代わる独自陣営設立を模索。同じ東洋離脱組のインドと旭日、そしてかつての三創同盟時代から親交の深い埼玉帝国を招待し、6月26日には遂にオスマン悲願の独自陣営、環ユーラシア条約機構を設立。7月1日には公式声明にて正式発足を果たした。
令和3年(2021年)
12月11日グアム島設立
12月11日北マリアナ諸島設立
12月11日キリキア侯国設立
12月12日南洋諸島連邦国建国宣言
12月12日アナトリア臨時国建国
12月13日ヴィクトリア設立
12月21日キプロス及びコンスタンティノープル、帝国に加盟
12月22日アナトリア臨時国によるトルコ統一
12月23日オスマン帝国成立、香取氏即位
12月26日北マリアナ諸島、南コーカサス地方へ遷都・大アルメニア王国へ改称
12月30日首都グアム、メソポタミアへ遷都・大クルディスタンへ改称
令和4年(2022年)
1月01日三創同盟発足
1月02日ウィーン包囲
1月03日講和会議締結、神聖アウグスライヒと国交正常化
1月05日ヴィクトリア、サマルカンドへ移転・改称
1月08日満洲騒動
1月08日オスマン帝国憲法 施行
1月08日アブダビ首長国、帝国構成国として正式加盟
1月16日鎖国宣言
1月19日エジプト王国設立
2月04日開国宣言
2月05日エルキア設立
2月12日イエメン設立
2月22日第一紀終了
12月11日グアム島設立
12月11日北マリアナ諸島設立
12月11日キリキア侯国設立
12月12日南洋諸島連邦国建国宣言
12月12日アナトリア臨時国建国
12月13日ヴィクトリア設立
12月21日キプロス及びコンスタンティノープル、帝国に加盟
12月22日アナトリア臨時国によるトルコ統一
12月23日オスマン帝国成立、香取氏即位
12月26日北マリアナ諸島、南コーカサス地方へ遷都・大アルメニア王国へ改称
12月30日首都グアム、メソポタミアへ遷都・大クルディスタンへ改称
令和4年(2022年)
1月01日三創同盟発足
1月02日ウィーン包囲
1月03日講和会議締結、神聖アウグスライヒと国交正常化
1月05日ヴィクトリア、サマルカンドへ移転・改称
1月08日満洲騒動
1月08日オスマン帝国憲法 施行
1月08日アブダビ首長国、帝国構成国として正式加盟
1月16日鎖国宣言
1月19日エジプト王国設立
2月04日開国宣言
2月05日エルキア設立
2月12日イエメン設立
2月22日第一紀終了
令和4年(2022年)
2月23日オスマン帝国摂政にチャット氏が就任
3月02日渡辺氏の作曲したオスマン帝国国家が国家として制定される
3月06日マレー問題
3月19日第二紀サーバーオープン
3月19日ヒッタイト設立
3月20日ナポリ王国、サマルカンド、サルデニア王国、南東アフリカ設立
3月20日オスマン帝国建国
3月23日パレルモ加盟
3月28日ヴィクトリア、イラン平和自治区設立
3月29日オスマン帝国によるイタリア統一
4月03日コンスタンティノープル設立
4月05日東洋連合加盟
4月08日クロスベル設立
4月13日バナナ加盟(後に台湾自治領へと改称)
4月15日キレナイカ設立
4月15日漢による台湾干渉
4月19日ステイリーキャット設立(5月20日頃撤退)
4月20日クロアチア沿岸の未回収のイタリアを獲得
4月25日オリーブ事件において大旭日帝國並びに東洋連合を支持
4月29日オスマン帝国・ドイツ帝国の衛星国としてセルビア王国が建国
5月01日中央同盟締結
5月04日オスマン帝国共同体の設立、モンゴル紛争、カリマンタン危機
5月07日東洋連合=帝国協定冷戦
5月14日エジプト問題
5月15日セルビア騒乱
5月16日摂政がチャット氏からHaydenErsoy氏へ交代(摂政独裁から三頭政治へ)
5月20日村人交易が開始
5月22日オスマン帝国共同体加盟国としてジャバル・シャンマル首長国が建国
5月24日皇帝香取氏の帰還
5月27日オスマン帝国、ビザンツ帝国、ソビエト=レーテ社会主義共和国連邦によりセルビア協議の開催
5月28日ドイツショック、ドイツ保護占領で合意、セルビア王国が独立が宣言、セルビア危機
5月29日オスマン帝国皇帝がローマ皇帝の称号獲得を宣言
5月30日パレスチナ設立及び遷都
5月31日地中海帝国宣言
6月02日旧ドイツ領ボスニアを併合、バグダッド及びエルズルム設立
6月10日東洋連合からの離脱を問う国民投票(翌11日締切、同票の為皇帝判断により残留)
6月15日第一次内閣改造、新内閣発足
6月16日カイロ加盟、ハンガリー占領
6月20日エジプト王国建国
6月24日情勢変化を受けた東洋連合からの離脱を問う二度目の国民投票(離脱が圧倒的多数)
6月24日東洋連合正式離脱
6月26日オスマンによる独自陣営設立
6月29日東方国境調整
7月01日環ユーラシア条約機構正式発足
2月23日オスマン帝国摂政にチャット氏が就任
3月02日渡辺氏の作曲したオスマン帝国国家が国家として制定される
3月06日マレー問題
3月19日第二紀サーバーオープン
3月19日ヒッタイト設立
3月20日ナポリ王国、サマルカンド、サルデニア王国、南東アフリカ設立
3月20日オスマン帝国建国
3月23日パレルモ加盟
3月28日ヴィクトリア、イラン平和自治区設立
3月29日オスマン帝国によるイタリア統一
4月03日コンスタンティノープル設立
4月05日東洋連合加盟
4月08日クロスベル設立
4月13日バナナ加盟(後に台湾自治領へと改称)
4月15日キレナイカ設立
4月15日漢による台湾干渉
4月19日ステイリーキャット設立(5月20日頃撤退)
4月20日クロアチア沿岸の未回収のイタリアを獲得
4月25日オリーブ事件において大旭日帝國並びに東洋連合を支持
4月29日オスマン帝国・ドイツ帝国の衛星国としてセルビア王国が建国
5月01日中央同盟締結
5月04日オスマン帝国共同体の設立、モンゴル紛争、カリマンタン危機
5月07日東洋連合=帝国協定冷戦
5月14日エジプト問題
5月15日セルビア騒乱
5月16日摂政がチャット氏からHaydenErsoy氏へ交代(摂政独裁から三頭政治へ)
5月20日村人交易が開始
5月22日オスマン帝国共同体加盟国としてジャバル・シャンマル首長国が建国
5月24日皇帝香取氏の帰還
5月27日オスマン帝国、ビザンツ帝国、ソビエト=レーテ社会主義共和国連邦によりセルビア協議の開催
5月28日ドイツショック、ドイツ保護占領で合意、セルビア王国が独立が宣言、セルビア危機
5月29日オスマン帝国皇帝がローマ皇帝の称号獲得を宣言
5月30日パレスチナ設立及び遷都
5月31日地中海帝国宣言
6月02日旧ドイツ領ボスニアを併合、バグダッド及びエルズルム設立
6月10日東洋連合からの離脱を問う国民投票(翌11日締切、同票の為皇帝判断により残留)
6月15日第一次内閣改造、新内閣発足
6月16日カイロ加盟、ハンガリー占領
6月20日エジプト王国建国
6月24日情勢変化を受けた東洋連合からの離脱を問う二度目の国民投票(離脱が圧倒的多数)
6月24日東洋連合正式離脱
6月26日オスマンによる独自陣営設立
6月29日東方国境調整
7月01日環ユーラシア条約機構正式発足
オスマン帝国憲法 2022年1月8日公布・施行
第1条
オスマン帝国は、実際の国および所有地、ならびに特権的な地方からなる。
それは、いかなる動機によっても、いかなる部分も切り離すことができない不可分の全体を形成する。
第2条
大クルディスタンは、オスマン帝国の首都である。
この都市は、帝国の他の都市を排除して、それ自身に固有の特権または免除を有するものではない。
第3条
国旗は、赤地に白い月と星の描かれた旗とする。
第4条
オスマン帝国王朝の構成員の自由、不動産と個人の財産、生涯の市民名簿は、皆の保証の下にある。
第5条
オスマン皇帝は、その主権的権利の中に、次の特権を数えている。
併合及び合併の最終決定;大臣の任命及び罷免;勲章の授与;列強との条約締結;宣戦布告及び和平交渉;帝国議会の招集や一時停止
第6条
帝国のすべての臣民は、いかなる宗教を信仰しているかにかかわらず、区別なくオスマン人と呼ばれる。
第7条
すべてのオスマン人は、他人の自由を侵害しないことを条件として、個人の自由を享受する。
第8条
国家は、帝国内で認められたすべての宗教の自由な実践を保護し、公の秩序又は善良の風俗に反する行為をしないという条件で、各種の共同体に認められた宗教的特権を与える。
第9条
オスマン皇帝は、帝国の領域において事実が証明され、またはトラブルを予見させるような兆候があるときは、その街に対して機能停止を宣言する権利を有する。
機能停止の効果は、その領域がもつすべての権利を一時的に停止することにある。
なお、機能停止の宣言は国内外問わず通達されるものとする。
第10条
オスマン皇帝は、信頼に値する情報の結果として、国家の安全を害すると認められる者を帝国の領域から追放する排他的な権限を有する。
第11条
すべてのオスマン人は、法の下において平等である。
彼らは、宗教に偏ることなく、国に対して同じ権利と同じ義務を有する。
第12条
オスマン皇帝は、その信任が適切と考える者を、皇帝の勅命により大臣に任命する。
第13条
すべてのオスマン人は、その適性、功績および能力によって、公職に就くことを許される。
第14条
参謀本部は、オスマン皇帝に代表される。
参謀総長は、オスマン帝国軍の最高司令官であり、作戦の立案任務を遂行する義務を負う。作戦案を承認もしくは拒否する最高決定権はオスマン皇帝に帰属するものとする。
各元帥は、参謀本部からの司令をもとにオスマン帝国軍を指揮する義務を負う。
皇帝不在の場合の意思決定は参謀総長ならびに大宰相、双方の合意の上で承認となる。
第15条
帝国議会は、オスマン皇帝の下に集められる。
帝国議会の権限は、国の内外を問わず、すべての重要な事務に及ぶ。
第16条
帝国議会は、各都市の長により構成される。
第17条
オスマン皇帝は、情勢の必要性に応じて、会期の開始を予測し、会期を短縮または延長することができる。
第18条
帝国議会のすべての議員は、オスマン皇帝と国に対して忠誠を誓い、憲法を遵守し、自分に託された義務を果たし、義務に反するあらゆる行為を行わないことを誓わなければならない。
第19条
帝国議会の議員は、その意見および表決を自由に行うことができる。
何人も、指示または約束、影響または脅迫によって拘束されることはない。
ただし、その議会の内部規則に違反した場合は、その規則に定める処分が適用される。
第20条
帝国議会の各議員は、本人が投票する。
投票は、賛成と反対によって行われる。
第21条
議会における投票では、票数が過半数を超えた時をもって承認されることとする。
なお、票数が同数のときは、オスマン皇帝が決定票を有する。
第22条
法律の立案または現行法の改正の発議は、オスマン帝国政府及び各省に属する。
帝国議会は、その任務の範囲内にある事項について、新法の制定または現行法の改正を要求することができる。
要求は、法務大臣が勅令によって、関係省庁が提供する情報と経験に基づき、提案の目的に合致する法律の草案を作成するよう命じられる。
第23条
帝国議会には、いかなる干渉も加えることができない。
第24条
金銭は、法律の定めるところによらなければ、賦課金、租税その他の名目で徴収することができない。
第25条
各省庁の長は、その権限の範囲内で、自分の部局に属する事務を管理する。
第26条
あらゆる形態の拷問は、完全かつ絶対に禁止する。
第27条
オスマン人は、法律及び規則の定める範囲内において、商業、工業又は農業の団体を結成する特権を有する。
第28条
憲法のいかなる処分も、いかなる理由によっても、これを停止し、又は無視することができない。
第29条
正当に証明された必要性がある場合、憲法は、その処分の一部を変更することができる。
第30条
現行の法律、規則、慣行及び慣習のすべての処分は、法律又は規則により変更又は廃止されるまで、適用されるものとする。
2022年1月8日 第16条改正
1月9日 第14条改定
1月10日 第5条改正
第1条
オスマン帝国は、実際の国および所有地、ならびに特権的な地方からなる。
それは、いかなる動機によっても、いかなる部分も切り離すことができない不可分の全体を形成する。
第2条
大クルディスタンは、オスマン帝国の首都である。
この都市は、帝国の他の都市を排除して、それ自身に固有の特権または免除を有するものではない。
第3条
国旗は、赤地に白い月と星の描かれた旗とする。
第4条
オスマン帝国王朝の構成員の自由、不動産と個人の財産、生涯の市民名簿は、皆の保証の下にある。
第5条
オスマン皇帝は、その主権的権利の中に、次の特権を数えている。
併合及び合併の最終決定;大臣の任命及び罷免;勲章の授与;列強との条約締結;宣戦布告及び和平交渉;帝国議会の招集や一時停止
第6条
帝国のすべての臣民は、いかなる宗教を信仰しているかにかかわらず、区別なくオスマン人と呼ばれる。
第7条
すべてのオスマン人は、他人の自由を侵害しないことを条件として、個人の自由を享受する。
第8条
国家は、帝国内で認められたすべての宗教の自由な実践を保護し、公の秩序又は善良の風俗に反する行為をしないという条件で、各種の共同体に認められた宗教的特権を与える。
第9条
オスマン皇帝は、帝国の領域において事実が証明され、またはトラブルを予見させるような兆候があるときは、その街に対して機能停止を宣言する権利を有する。
機能停止の効果は、その領域がもつすべての権利を一時的に停止することにある。
なお、機能停止の宣言は国内外問わず通達されるものとする。
第10条
オスマン皇帝は、信頼に値する情報の結果として、国家の安全を害すると認められる者を帝国の領域から追放する排他的な権限を有する。
第11条
すべてのオスマン人は、法の下において平等である。
彼らは、宗教に偏ることなく、国に対して同じ権利と同じ義務を有する。
第12条
オスマン皇帝は、その信任が適切と考える者を、皇帝の勅命により大臣に任命する。
第13条
すべてのオスマン人は、その適性、功績および能力によって、公職に就くことを許される。
第14条
参謀本部は、オスマン皇帝に代表される。
参謀総長は、オスマン帝国軍の最高司令官であり、作戦の立案任務を遂行する義務を負う。作戦案を承認もしくは拒否する最高決定権はオスマン皇帝に帰属するものとする。
各元帥は、参謀本部からの司令をもとにオスマン帝国軍を指揮する義務を負う。
皇帝不在の場合の意思決定は参謀総長ならびに大宰相、双方の合意の上で承認となる。
第15条
帝国議会は、オスマン皇帝の下に集められる。
帝国議会の権限は、国の内外を問わず、すべての重要な事務に及ぶ。
第16条
帝国議会は、各都市の長により構成される。
第17条
オスマン皇帝は、情勢の必要性に応じて、会期の開始を予測し、会期を短縮または延長することができる。
第18条
帝国議会のすべての議員は、オスマン皇帝と国に対して忠誠を誓い、憲法を遵守し、自分に託された義務を果たし、義務に反するあらゆる行為を行わないことを誓わなければならない。
第19条
帝国議会の議員は、その意見および表決を自由に行うことができる。
何人も、指示または約束、影響または脅迫によって拘束されることはない。
ただし、その議会の内部規則に違反した場合は、その規則に定める処分が適用される。
第20条
帝国議会の各議員は、本人が投票する。
投票は、賛成と反対によって行われる。
第21条
議会における投票では、票数が過半数を超えた時をもって承認されることとする。
なお、票数が同数のときは、オスマン皇帝が決定票を有する。
第22条
法律の立案または現行法の改正の発議は、オスマン帝国政府及び各省に属する。
帝国議会は、その任務の範囲内にある事項について、新法の制定または現行法の改正を要求することができる。
要求は、法務大臣が勅令によって、関係省庁が提供する情報と経験に基づき、提案の目的に合致する法律の草案を作成するよう命じられる。
第23条
帝国議会には、いかなる干渉も加えることができない。
第24条
金銭は、法律の定めるところによらなければ、賦課金、租税その他の名目で徴収することができない。
第25条
各省庁の長は、その権限の範囲内で、自分の部局に属する事務を管理する。
第26条
あらゆる形態の拷問は、完全かつ絶対に禁止する。
第27条
オスマン人は、法律及び規則の定める範囲内において、商業、工業又は農業の団体を結成する特権を有する。
第28条
憲法のいかなる処分も、いかなる理由によっても、これを停止し、又は無視することができない。
第29条
正当に証明された必要性がある場合、憲法は、その処分の一部を変更することができる。
第30条
現行の法律、規則、慣行及び慣習のすべての処分は、法律又は規則により変更又は廃止されるまで、適用されるものとする。
2022年1月8日 第16条改正
1月9日 第14条改定
1月10日 第5条改正
第一親政(令和3年12月12日〜令和4年2月23日)
摂政独裁(令和4年2月23日〜5月17日)
三頭政治(令和4年5月18日〜5月27日)
第二親政(令和4年5月28日〜6月14日)
第一次内閣改造(令和4年6月15日〜)
国家元首 | ||
皇帝 | 香取氏 | |
省庁 | 閣僚 | 氏名 |
大宰相 | チャット氏 | |
外務省 | 外務大臣 | 香取氏 |
法務省 | 法務大臣 | HaydenErsoy氏 |
国土交通省 | 国土交通大臣 | 楓丸氏 |
国土交通副大臣 | プレーンゴリラ氏 | |
農林水産省 | 農林水産大臣 | メメダカ氏 |
農林水産副大臣 | HaydenErsoy氏 | |
軍需生産省 | 軍需生産大臣 | チャット氏 |
国防総省 | 参謀総長 | Admiral=Nyanko氏 |
陸軍元帥 | 倭寇の田中元晴氏 |
皇帝香取氏による親政
摂政独裁(令和4年2月23日〜5月17日)
国家元首 | ||
皇帝 | 香取氏 | |
摂政 | チャット氏 | |
省庁 | 閣僚 | 氏名 |
大宰相 | チャット氏 | |
外務省 | 外務大臣 | チャット氏 |
法務省 | 法務大臣 | HaydenErsoy氏 |
国土交通省 | 国土交通大臣 | 楓丸氏 |
国土交通副大臣 | プレーンゴリラ氏 | |
農林水産省 | 農林水産大臣 | メメダカ氏 |
農林水産副大臣 | HaydenErsoy氏 | |
軍需生産省 | 軍需生産大臣 | チャット氏 |
国防総省 | 参謀総長 | Admiral=Nyanko氏 |
陸軍元帥 | 倭寇の田中元晴氏 |
摂政チャット氏による統治
三頭政治(令和4年5月18日〜5月27日)
国家元首 | ||
皇帝 | 香取氏 | |
摂政 | HaydenErsoy氏 | |
省庁 | 閣僚 | 氏名 |
大宰相 | チャット氏 | |
外務省 | 外務大臣 | チャット氏 |
法務省 | 法務大臣 | HaydenErsoy氏 |
国土交通省 | 国土交通大臣 | 楓丸氏 |
国土交通副大臣 | プレーンゴリラ氏 | |
農林水産省 | 農林水産大臣 | メメダカ氏 |
農林水産副大臣 | HaydenErsoy氏 | |
軍需生産省 | 軍需生産大臣 | チャット氏 |
国防総省 | 参謀総長 | Admiral=Nyanko氏 |
陸軍元帥 | 倭寇の田中元晴氏 |
摂政HaydenErsoy氏、大宰相チャット氏、参謀総長Admiral=Nyanko氏による三頭政治
第二親政(令和4年5月28日〜6月14日)
国家元首 | ||
皇帝 | 香取氏 | |
省庁 | 閣僚 | 氏名 |
大宰相 | チャット氏 | |
外務省 | 外務大臣 | 香取氏 |
法務省 | 法務大臣 | HaydenErsoy氏 |
国土交通省 | 国土交通大臣 | 楓丸氏 |
国土交通副大臣 | プレーンゴリラ氏 | |
農林水産省 | 農林水産大臣 | メメダカ氏 |
農林水産副大臣 | HaydenErsoy氏 | |
軍需生産省 | 軍需生産大臣 | チャット氏 |
国防総省 | 参謀総長 | Admiral=Nyanko氏 |
陸軍元帥 | 倭寇の田中元晴氏 |
皇帝香取氏による親政
第一次内閣改造(令和4年6月15日〜)
国家元首 | ||
皇帝 | 香取氏 | |
省庁 | 閣僚 | 氏名 |
大宰相 | チャット氏 | |
軍務長官 | Admiral=Nyanko氏 | |
法務長官 | HaydenErsoy氏 | |
外務省 | 外務大臣 | 六太氏 |
外務副大臣 | いとこう氏 | |
法務省 | 法務大臣 | HaydenErsoy氏 |
法務副大臣 | アナゴ氏 | |
建設省 | 建設大臣 | oculus氏 |
建設副大臣 | sora氏 | |
ooo215氏 | ||
国防総省 | 参謀総長 | Admiral=Nyanko氏 |
副参謀総長 | 美和たゃ氏 | |
サルディニア田中氏 | ||
軍備総監 | チャット氏 |
皇帝香取氏、大宰相チャット氏、軍務長官Admiral=Nyanko氏、法務長官HaydenErsoy氏による御前会議の明文化
上記はアラビア半島南西部に位置する第一帝国が消滅する以前の時代の画像。この後第一帝国領は崩壊し、オスマンによるイエメン占領へと繋がっていく。
第一紀終了後の2月26日。第一帝国跡地にイエメンを設立したオスマンは中東覇権を確立し、最大版図のまま第二紀へと移行していった。
No. | 町名 | 旗立地 | 説明 |
1 | 大クルディスタン | イラク北部 | オスマン帝国の首都。楓丸氏が建築した城壁により城郭都市となっており、城壁内部では中心部に鎮座するクルディスタン要塞(sora氏建築)を取り囲むように純白の香取邸、運河などが存在していた。また当時は鉄道敷設と駅ビルの建設計画もありまだまだ発展途上であった。移転前は太平洋上のグアム島。 |
2 | キリキア侯国 | トルコ東部 | オスマン帝国発祥の地。チャット氏による二棟の砂岩ビルが有名。うち一棟は村人との交易所となっており、多くの厳選された村人達との交易が行えるなど、オスマンの国力の源泉と言っても過言ではない重要施設であった。北部にはPvP場も。 |
3 | 大アルメニア王国 | ジョージア | 人より馬の方が多いと云われる馬の聖地。世界各地から馬を厳選しては繁殖を繰り返すことで最上級の馬を量産しており、その質の高さや種類の豊富さには見学に来た他国の馬主が絶賛し「喉から手が出るぐらいに欲しい」と言わしめた程であった。やはり馬に関連する施設が多く、複数の厩舎は勿論のこと馬の速度を測る専用トラックなどもあった。移転前はグアム島の北に位置する北マリアナ諸島。 |
4 | 聖キプロス自治州 | キプロス | 人口が最も多くオスマンでも一位と二位を争うレベルで発展していた町。アナトリア側では大規模開発が行われており、高層ビルや庁舎などから教会やアパートまで様々な建築物が建ち並ぶ非常に近現代的な計画都市を形成していた。一方でキプロス本島は島全域を取り囲むように壁が設置されているなど厳重な管理下にあった。 |
5 | サマルカンド | タジキスタン | |
6 | コンスタンティノープル | トルコ西部 | |
7 | イラン平和自治区 | イラン北部 | |
8 | 北方皇国 | サウジアラビア北西部 | |
9 | ナジュド王国 | サウジアラビア北部 | |
10 | アブダビ首長国 | アラブ首長国連邦 | |
11 | リビア | リビア中部 | |
12 | エジプト王国 | エジプト西部 | |
13 | ルウェンゾリ地下街 | ||
14 | ヴィクトリア | ウガンダ南部 | |
15 | ザンベジア総合軍事演習場 | モザンビーク | |
16 | エルキア | ヨルダン | 名建築士sora氏によって作られた某NERF本部を想起させる建造物が町内全域に広がっており、そのクオリティと規模感はまさしく圧巻である。外部からの侵入が非常に困難な構造になっている他、エルキア内部への唯一の連絡路も厳重に警備されている上に偽装まで施されているなど、秘密基地さながらの様相を呈していた。 |
17 | アフガニスタン王国 | アフガニスタン | |
18 | イエメン | イエメン西部 | 第一帝国跡地に設立された町。第一帝国の崩壊からイエメン設立までの短期間に東ローマ国王(Mituki)の破壊活動によって旧市街全域が水没したことや、オスマンによる領有後も一部遺構のロールバックが止まらず中途半端に破壊された状態で残ったことが影響し、イエメンは退廃的かつ幻想的な景観が広がる廃墟と水の都として観光地化した。 |
イエメン領有後も崩壊が進む水没した第一帝国旧市街
エルズルムとバグダッドの拡張が終わり、地中海に加え中東の大部分をも制圧したオスマン帝国。総チャンク数は8000超と他国を凌駕している。
現存する町
(首長・立地・人口は2022年7月15日時点)
1.コンスタンティノープル
首長:Admiral=Nyanko(.Admiral1991)
立地:トルコ北西部・ギリシャ北東部・ブルガリア・ルーマニア沿岸部・北マケドニア東部
人口:
期間:4月3日〜
説明:
2.ヒッタイト王国
首長:HaydenErsoy(HaydenErsoy)
立地:トルコ中部・キプロス
人口:
期間:3月19日〜
説明:
3.アルザワ王国
首長:アナゴ(.Anagonokami7730)
立地:トルコ南西部
人口:
期間:4月29日〜
説明:
4.エルズルム
首長:いとこう(.WalnutBreak58)
立地:トルコ東部
人口:
期間:6月2日〜
説明:
5.サルデニア王国
首長:サルディニア田中(.Tanaka1982)
立地:イタリア北部・イタリアサルデーニャ島・フランスコルス島・クロアチア沿岸部
人口:
期間:3月20日〜
説明:
6.ナポリ王国
首長:Ephemerality34(.Ephemerality34)
立地:イタリア南部・ギリシャ・北マケドニア南西部・アルバニア南部
人口:
期間:3月20日〜
説明:
7.パレルモ
首長:oculus(.oculus2345)
立地:イタリアシチリア島・リビア北西部
人口:
期間:3月20日〜(3月23日加盟)
説明:
8.ボスニア
首長:まきお。(.MakioO3140)
立地:スロベニア南部・クロアチア内陸部・ボスニア・セルビア北部・モンテネグロ西部・ハンガリー南部
人口:
期間:不明(6月2日加盟)
説明:
9.パレスチナ
首長:香取(.katokatori)
立地:イスラエル・レバノン・ヨルダン北部・シリア西部・エジプトシナイ半島南部・カザフスタン北部・トルコ中南部
人口:2人
期間:5月30日〜
説明:オスマン帝国の首都。北部では宮殿や官庁街を中心とする新首都の建設が進められており、発展が著しい。中部の砂漠地帯にはパレスチナ設立以前から人工湖(製作者不明)が存在しており、パレスチナ湖と呼ばれている。パレスチナ湖周辺はリゾート開発の計画がある。
10.バグダッド
首長:六太(.rokutacond)
立地:シリア東部・イラク西部・カザフスタン北部・ヨルダン北東部・トルコ中南部
人口:
期間:6月2日〜
説明:
11.キレナイカ
首長:onosan333(.onosan3)
立地:リビア北東部・エジプト北部
人口:
期間:4月15日〜
説明:
12.サマルカンド
首長:楓丸(rainbow710)
立地:
人口:1人
期間:3月20日〜
説明:
13.ヴィクトリア自由国
首長:南京餅(Namkin_Uri)
立地:
人口:
期間:3月28日〜
説明:
14.クロスベル
首長:nakkann03(nakkann03)
立地:
人口:
期間:4月8日〜
説明:
15.台湾自治領
首長:sora(.sora04230423)
立地:台湾
人口:
期間:3月28日〜(4月13日加盟)
説明:
16.バン
首長:
立地:
人口:
期間:
説明:
1.コンスタンティノープル
首長:Admiral=Nyanko(.Admiral1991)
立地:トルコ北西部・ギリシャ北東部・ブルガリア・ルーマニア沿岸部・北マケドニア東部
人口:
期間:4月3日〜
説明:
2.ヒッタイト王国
首長:HaydenErsoy(HaydenErsoy)
立地:トルコ中部・キプロス
人口:
期間:3月19日〜
説明:
3.アルザワ王国
首長:アナゴ(.Anagonokami7730)
立地:トルコ南西部
人口:
期間:4月29日〜
説明:
4.エルズルム
首長:いとこう(.WalnutBreak58)
立地:トルコ東部
人口:
期間:6月2日〜
説明:
5.サルデニア王国
首長:サルディニア田中(.Tanaka1982)
立地:イタリア北部・イタリアサルデーニャ島・フランスコルス島・クロアチア沿岸部
人口:
期間:3月20日〜
説明:
6.ナポリ王国
首長:Ephemerality34(.Ephemerality34)
立地:イタリア南部・ギリシャ・北マケドニア南西部・アルバニア南部
人口:
期間:3月20日〜
説明:
7.パレルモ
首長:oculus(.oculus2345)
立地:イタリアシチリア島・リビア北西部
人口:
期間:3月20日〜(3月23日加盟)
説明:
8.ボスニア
首長:まきお。(.MakioO3140)
立地:スロベニア南部・クロアチア内陸部・ボスニア・セルビア北部・モンテネグロ西部・ハンガリー南部
人口:
期間:不明(6月2日加盟)
説明:
9.パレスチナ
首長:香取(.katokatori)
立地:イスラエル・レバノン・ヨルダン北部・シリア西部・エジプトシナイ半島南部・カザフスタン北部・トルコ中南部
人口:2人
期間:5月30日〜
説明:オスマン帝国の首都。北部では宮殿や官庁街を中心とする新首都の建設が進められており、発展が著しい。中部の砂漠地帯にはパレスチナ設立以前から人工湖(製作者不明)が存在しており、パレスチナ湖と呼ばれている。パレスチナ湖周辺はリゾート開発の計画がある。
10.バグダッド
首長:六太(.rokutacond)
立地:シリア東部・イラク西部・カザフスタン北部・ヨルダン北東部・トルコ中南部
人口:
期間:6月2日〜
説明:
11.キレナイカ
首長:onosan333(.onosan3)
立地:リビア北東部・エジプト北部
人口:
期間:4月15日〜
説明:
12.サマルカンド
首長:楓丸(rainbow710)
立地:
人口:1人
期間:3月20日〜
説明:
13.ヴィクトリア自由国
首長:南京餅(Namkin_Uri)
立地:
人口:
期間:3月28日〜
説明:
14.クロスベル
首長:nakkann03(nakkann03)
立地:
人口:
期間:4月8日〜
説明:
15.台湾自治領
首長:sora(.sora04230423)
立地:台湾
人口:
期間:3月28日〜(4月13日加盟)
説明:
16.バン
首長:
立地:
人口:
期間:
説明:
かつて存在した町
1.南東アフリカ
首長:watanabe2001(.watanabe2001)
立地:
人口:
期間:3月20日〜4月18日、4月20日〜5月4日
説明:
2.ステイリーキャット
首長:
立地:
人口:
期間:4月19日〜5月20日
説明:
3.イラン平和自治区
首長:メメダカ(.medakacoco32)
立地:イラン北部
人口:1人
期間:3月28日〜5月30日
説明:カスピ海に面した第一紀から続く歴史の長い町であった。維持費を払えず消滅。
4.カイロ
首長:zqvx0w0(zqvx0w0)
立地:エジプト南部
人口:
期間:6月16日〜6月20日
説明:短期間オスマンに加盟した後、エジプト王国として独立。
勲章の種類 | |
オスマン帝国国家勲章 | 勲績または功労が特に優れた者に授与 |
オスマン帝国勲章 | 友好関係の強化に寄与した外国国家元首、外交官に授与 |
オスマン帝国従軍勲章 | 各戦役の従軍者へ授与 |
オスマン帝国功労勲章 | 国家または公共に対し勲績ある者に授与 |
令和4年(2022年)
勲章種類 | 授与日 | 授与者 | 授与理由 |
帝国国家勲章 | 1月16日 | kirishima氏 | 対一征會での情報戦勝利及び第一帝国解体に成功 |
neoend氏 | スパイとして一征會に潜入し情報提供でオスマンを勝利に導く | ||
5月29日 | チャット氏 | 第二紀で摂政を務め国家の発展に大きく貢献 | |
HaydenErsoy氏 | チャット氏の後任として摂政を務め国家に安寧を齎す | ||
帝国勲章 | 1月5日 | むつきぃ氏 | オスマン=オーハン同盟締結記念 |
5月29日 | 旧ドイツ国民 | ドイツ併合記念 | |
帝国従軍勲章 | 1月2日 | オスマン・インド両国民 | ウィーン戦役章 |
帝国功労勲章 | 1月4日 | 楓丸氏 | シルクロード建設 |
5月29日 | Admiral=Nyanko氏 | 摂政を支え続けた影の功労者 |
・YouTubeチャンネル https://www.youtube.com/channel/UC76I3J4akVLWrcXqk...
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